2020年11月15日説教「試 練」松本敏之牧師
試練
出エジプト記5章1~9節、マタイによる福音書24章9~14節
(1)ファラオとの対面
出エジプト記を続けて読んでいます。今日は、時間の都合で5章1節から9節をお読みいただきましたが、取り扱いの箇所としては、5章1節から6章1節までといたします。この第5章は、いよいよモーセがエジプトの王ファラオと対面する場面であります。
モーセはアロンと共に、ファラオのもとに行き、主なる神ヤハウェの言葉を告げるのです。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(1節)。それに対して、ファラオは「主(ヤハウェ)とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(2節)と答えました。この「主」というのは、もともとは「ヤハウェ」という神様の名前が書かれているのですが、畏れ多い神様のことを名前で呼ばない」ということから、「ヤハウェ」と書いてあるところは「主」という一般名詞に置き換えて記したのです。しかしモーセとアロンはさらに交渉を続けます。「「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣かでわたしたちを滅ぼされるでしょう」(3節)。
ここでモーセとアロンは、ファラオに対して、イスラエルの奴隷たちを完全に解放するように、要求してはいません。最初からそんなことを言っても聞かれないのは、わかっていたからかも知れません。主に犠牲をささげるために、言い換えれば「主を礼拝するために、三日間の道のりのところにある荒れ野に行かせてください」という、控えめな要求をいたしました。
ファラオは「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか」(5節)と言うのですが、これは、「人数が増えている彼らに時間があるならば、よからぬことを企むかも知れない」ということでありましょう。ファラオはモーセの要求を退け、一層厳しい命令を出しました。
この時の奴隷たちの仕事はれんが作りでありましたが、れんが作りには、わらが必要でした。れんがを作るのに粘土を乾燥させた時、ばらばらに崩れないためのつなぎとして、わらが必要でした。それまでは、わらはどこかから支給されていたのでしょう。しかしファラオは、「そのわらも自分たちで集めて来い。しかも作るれんがの数はこれまで通りだ。ひとつも減らしてはならない」と命令いたしました。
(2)巧みな支配構造
この時の支配構造は驚くほど巧みです。ファラオは、「民を追い使う者」と「下役」の両方に命じます(6節)。この「民を追い使う者」というのはエジプト人であり、いわばファラオの代理人です。そして「下役」はイスラエル人(ヘブライ人)であり、いわば奴隷たちのまとめ役です(14節参照)。ファラオのもとに「民を追い使う者」がおり、その下に「下役」がおり、その下に「奴隷たち」がいるのです。つまりイスラエル人たちの代表を作っておいて、自分たちの代わりに、奴隷たちを管理させ、支配させました。そして「民を追い使う者たち」は、直接的には、この下役たちを厳しく管理したのです。こういうことは、歴史上しばしばありました。ある民族が別の民族を支配した時、例えば植民地政策では、大抵こういうスタイルを取りました。支配する民族の代表を決めておいて、少し優遇するのです。
(3)ルワンダ大虐殺
1994年に、ルワンダ大虐殺という大事件が起こりました。その年の4月から約100日間の間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチ系の人々とフツ系の穏健派が殺害された事件です。正確な犠牲者数は明らかとなっていませんが、およそ50万人から100万人の間、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されています。
あの事件も、もとをただせば、歴史的にベルギーのツチ族を利用しても間接支配があったからと言われます。そこでフツ族のツチ族に対する反感、憎しみがあったのでした。
さてファラオの無理な要求に奴隷たちが応えられないと、「民を追い使う者」は、下役たちを鞭で打つのです(14節)。彼らは必死になって、ノルマ達成のために同胞のイスラエル人たちを働かせたでしょう。彼らも板挟みにされているのです。上から管理され、下からも突き上げられます。とうとう耐えられなくなって、ファラオのもとに直訴しに行きました。「どうしてあなたは僕たちにこのようにされるのですか。僕らにはわらが与えられません。それでもれんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです。間違っているのはあなたの民の方です」(15~16節)。
彼らは、勇気をふり絞って、ファラオのもとへ行きました。論理的に言えば、彼らの方が正しいのです。しかしこの訴えはファラオに一蹴されます。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。すぐに行って働け。わらは与えない。しかし、割り当てられたれんがの量は必ず仕上げよ」(17~18節)。
(4)味方からも憎まれる
彼らは一縷の望みを絶たれました。しかしこのまま民のもとに帰ることもできない。何を言われるかわかりません。彼らの信用を失い、彼らをまとめられなくなると、下役を交代させられてしまうかも知れません。どうしようもない思いで、外へ出たところ、ちょうどモーセとアロンに出会いました。彼らはその不満をこの二人にぶつけるのです。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(21節)。
もしかすると、ファラオのねらいは、最初からこのところにあったのかも知れません。お上にたてつく者に厳しくし、それによってもたらされた困難の原因を、謀反を起こそうと企てた人間(モーセ)に帰し、批判の目をそちらに向けさせるのです。そのようにして謀反は、内部分裂して崩壊し、首謀者は排除されていくのです。
モーセはエジプト人ファラオから憎まれるだけではなく、同胞のイスラエル人からも憎まれるようになります。敵は民の外にあるだけではなく、民の内側にもできてしまいました。試練と誘惑は、内側と外側の両方から彼を襲ったのでした。
(5)1930年代のドイツ
これも似たような歴史やドラマを、恐らく皆さんもたくさんご存じではないでしょうか。ナチス時代の、ドイツの教会もそうでありました。ドイツの教会は、ワイマール帝国時代に優遇されていましたが、ワイマール共和国時代には冷遇されました。その後ヒトラーは、教会を条件付きで再び優遇しようといたします。ナチス政府の政策に協力的な教会を優遇したのです。ヒトラーの政策に屈しないドイツ告白教会というのが、ボンヘッファーたちを中心にできるのですが、あまりにも厳しい時代です。やがて批判の焦点は、ヒトラーから告白教会運動のリーダーたちに向けられていって、この運動は内部分裂して、崩壊していくのです。そしてそれこそがナチス政府のねらいであったわけです。
他にも、そのようなことは、歴史上、さまざまな地域であったことです。このエジプトのファラオも同じです。彼は今や、モーセを自らやっつける必要はありません。自分たちの民をして、モーセを憎ませ、退けさせようとするのです。非常に悪魔的で狡猾です。
(6)世の終わりの試練
今月の終わり11月29日から待降節(アドベント)に入ります。教会の暦では、今は「降誕前」という時、待降節(アドベント)の前の時を歩んでいます。教会の暦では1年の終わりの季節であり、特に世の終わりと主の再臨に心を留める時とされています。
そのことを覚えて、新約聖書のテキストは、マタイによる福音書24章の、世の終わりにどういうことが起きるかということについて、イエス・キリストが語られた言葉を読んでいただきました。これは今日の出エジプト記の記事に通じるものがあると思ったからでもあります。
このように記されています。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」(マタイ24:9)。イエス・キリストの名のために、あなたがたは、あるゆる民から憎まれる、というのです。モーセがエジプト人からもイスラエル人からも憎まれたのと似ています。そして「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(同24:10~12)と記されています。試練は外から来るだけではない。外側から試練が来る時、まだその試練がそれ程大きくない間は、しばしば内側が結束し、かえって強められる経験をしますが、その試練があまりにも大きい時、それが限度を超えた時には、内側もおかしくなってくる。内側で批判しあい、愛が冷えていくのです。それは大きなレベルの話ではなく、小さな共同体、教会であったり、家族であったり、兄弟であったり、そういうところでも起きるでしょう。
「偽預言者が大勢現れる」と言います。「あんな奴の言うことを聞くな。あいつのせいで、私たちはこんな目にあうようになったのだ」という人間が出て来ます。いろんな共同体でそれが起こります。そして試練が厳しい時には、それがもっともらしく聞こえてくるのです。一日も早くその試練から抜け出したい。もうこういうことにかかわりたくないと思うからです。恐らくこの時のエジプトの奴隷たちもそうであったことでしょう。
(7)神のドラマは始まっている
しかし神様の物語はそれで終わらないのです。それらは終わりの一つ手前なのです。マタイ福音書のイエス・キリストの言葉も、「多くの人の愛が冷える」と語った後で、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と続きます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(同24:13~14)。
モーセの物語もそうです。「そこで民はモーセを憎むようになり、モーセは民のリンチにより殺されました」というのではないのです。モーセは神に祈りました。「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(22~23節)。
モーセは、そう祈りました。モーセには、神が不思議でなりませんでした。「神様、私を呼び戻し、『ファラオのもとへ行け』と言われたのは、あなたではありませんか。どうして沈黙しておられるのですか」と問うのです。神様は、そのモーセの切実な訴えをそのまま、放置したままにしておかれませんでした。神様には神様の定められた時があったのです。ただその時は、まだ来ていませんでした。「主は、モーセに言われた。『今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる』」(6:1)。
モーセの知らないところで、この神様のドラマはすでに始まっていたのです。じわじわと見えない形で、神様の計画は進行していました。そしてこのドラマは、一体どのような方向へと進んでいくのが、この時モーセに示されたのでした。
(8)敵は外にも内にもある
このことは、私たちの信仰生活を指し示しているのではないでしょうか。私たちの信仰生活も、さまざまな試練に取り囲まれております。私たちの信仰を揺さぶる者が外側にも内側にもいます。誘惑に取り囲まれております。そうした外にも内にもある試練と誘惑が潜んでいる。それらに負けそうになります。
「主よ、終わりまで しもべとして」という讃美歌があります(『讃美歌21』510)。2節はこういう歌詞があります。
「この世のさかえ 目を惑わし、
誘惑の声 耳に満ちて
敵は外にも 内にもある。
お守りください、主よ、私を」
私たちを取り囲んでいる現実はどうでしょうか。コロナ禍の中、行き詰まった思いをお持ちの方もあるかも知れません。そうしたところで結束しなければならないのに、愛が冷えて、かえって対立することもあるでしょう。世界の状況に目をやっても、気持ちが押しつぶされそうになります。地球上のあちこちで、このモーセの祈りを自らの民族の祈りとして祈らざるを得ない人々があるでしょう。しかし神様は、その祈りをただ放置して置かれるのではありません。神様のドラマはすでに見えない形で始まっているのです。
私たちがクリスマスを前にして、待降節(アドベント)の時に「来たりたまえわれらの主よ」と祈るのは、まさにそのことのためです。またそれが2000年前の過去の出来事に留まらず、世の終わりに再び起こることでもあることを覚えて、この時を過ごし、そして教会暦の新しい一回りを始めるのです。
(9)神の愛が私たちを試練から守ってくださる
使徒パウロは力強くこう語りました。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。飢饉か。剣か。……わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:35~39)。
この艱難を通り越して神様の愛を示されたイエス・キリストが私たちと共にあるならば、外側から襲ってくる試練に対しても、内側から襲ってくる誘惑に対しても、この主とつながって乗り越えていくことができるのではないでしょうか。終わりの日を見上げながら、そのような思いで、毎日を過ごしていきたいと思います。