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2020年10月25日説教「だから恐れるな」松本敏之牧師

だから恐れるな

ヨハネによる福音書10章26~33節

(1)さまざまなものへの恐れ

 今日私たちに与えられたマタイによる福音書10章26~33節は、日本基督教団の本日の聖書日課です。ここからみ言葉を聞いてまいりましょう。
私たち人間は、さまざまなものを恐れて生きています。若者には若者なりの恐れがあり、年配者には年配者なりの恐れがあるでしょう。若者は自分の将来に対する漠然とした恐れがあるでしょう。自分の仕事についての不安があり、結婚できるのだろうかという悩みもあるかもしれません。年配者には若い頃にはなかった健康上の心配やそれに伴う家族への責任上の不安もあるかもしれません。また主イエスに従っていくことを決めたために、クリスチャンになったがゆえに、新たな問題を抱え込むこともあるかもしれません。
今は、コロナ禍の中にあって、多くの人が病気にかからないだろうかという不安と恐れ、さらには生活がどうなってしまうのだろうかという将来への不安と恐れを抱えているのではないかと思います。

(2)聖書の「恐れるな」には根拠がある

 そのことについて、聖書は私たちになんと言っているでしょうか。聖書の根本的なメッセージのひとつは「恐れるな」ということだと思います。しかし聖書は無責任に「恐れるな。ひるむな」と言っているわけではありません。「がんばれ」という言葉も、励ますつもりが、かえってプレッシャーをかけることもあります。東日本大震災の時には、「がんばれ、日本!がんばれ、東北!」というのが合言葉のようになりましたが、その意味では疑問があります。しかし聖書の語る「恐れるな」というメッセージには、根拠があります。
 旧約聖書ヨシュア記冒頭には、神がモーセの後継者であるヨシュアに向かって語られた言葉があります。モーセは、誰もが認める大指導者でありました。誰がその後継者になっても、モーセのようなわけにはいかなかったでしょう。そして「自分はモーセ先輩のあとを継げるような器ではない」と思ったことでしょう。ヨシュアもそうであったことと思います。そのようなヨシュアに向かって、神様はこう言われました。
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」だから(!)「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1:5~6)。
「うろたえてはならない。おののいてはならない。」なぜならば(!)「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア1:9)。
 聖書が「恐れるな」という根拠の中心にあるのは、「わたし(神)はあなたと共にいる」ということです。
私がブラジルへ行った時もそうでした。不安がありました。しかし、神が共におられるということは大きな励ましでありました。そして事実、神様は私をブラジルで待っておられ、ブラジルでも日本でも共に歩んでくださいました。
 

(3)真実は必ず明らかになる

 今日、私たちに与えられたマタイによる福音書10章26節以下の言葉は、まさにその「恐れるな」というメッセージが語られたところです。イエス・キリストの「恐れるな」という励ましにも、やはり根拠がありました。そのことをいろいろな側面から語られましたが、その第一は、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10:26)ということでした。
 誰がどんなに隠ぺいしようと真実は必ず明らかになる。これは真実を覆い隠そうとする者にとっては脅威でしょう。しかし、その犠牲になっている人にとっては、救いの言葉、希望の言葉ではないでしょうか。この世の力でどんなに隠そうとしても、やがて真実は明らかになるということが、私たちがこの世の権威を恐れずに生きることができるようになる根拠となるのだと思います。
群衆は、「宗教的指導者の語ること、することに間違いがあるはずがない」と思い込んでいます。群衆をその思い込み、洗脳から解放しようとするのです。「目を覚ませ。彼らを信用するな。」
今日の私たちの宗教世界もそういう面があるかもしれません。大きなところでは、ローマ・カトリック教会や私たちの日本基督教団にもそういうことがあるかもしれません。(なんて余計なことは言わないほうがいいかもしれませんが、)少なくとも、それを注意深く見守っていく責任があるのではないでしょうか。

(4)真に恐るべき方を恐れよ

「恐れるな」ということの二つ目は「真に恐るべき方を恐れよ」ということでした。つまり真に恐るべき方を恐れることによって、それ以外の一切のものを恐れないということです。こう語られます。
 「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。
 イエス・キリストは、この時、実際に命をねらわれていました。彼らの敵意はやがて殺意に変わっていきます。イエス・キリストがそれを察知していなかったはずはありません。それらを踏まえて、つまり自分も命をねらわれている一人であることを承知しつつ、自分に言い聞かせるようなつもりで語られたのかもしれません。
 真に恐るべき方を恐れることによって、他の者が相対化されてくる。これは生きる知恵でもあります。旧約聖書、箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉があります。「神をも恐れぬ大胆さ」という言葉がありますが、「神を恐れない」者は、実際には、逆にさまざまなことに、びくびくして生きていることが多い者です。

(5)配慮に満ちたお方

さて、イエス・キリストは「恐れるな」ということの最も大事な根拠について、(三つ目ですが、)ひとつのたとえをもって語られました。
「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか」(マタイ10:29)。
1アサリオンは16分の1デナリオンということです(聖書巻末の度量衡換算表)。労働者の1日の賃金が1デナリオンでしたので、仮に日本円で5000円であるとすれば、1アサリオンは約300円です。その半分ですから、1羽150円ということになります。「だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(29~31節)。
殺した後で、地獄に投げ込む権威を持った唯一の恐るべきお方は、同時に、一羽の雀を心に留め、私たちの髪の毛までも数えておられる。それほどデリケートな配慮に満ちたお方だということです。
 私たちは、「その雀よりもはるかにまさっている」、と言われます。それはそれでまた雀軽視だ、動物差別だと言われるかもしれませんが、いずれにしろ、ここから分かることは、私たちの主は、命の主であり、私たちの体の主であり、私たちの人生の主である、ということです。その主が私たちと共にいてくださるという約束です。
 私たちを「地獄で滅ぼす権威を持っている方」は、「私たちを地獄で滅ぼす方」とは書いてありません。実際には地獄へ投げ込まないで、その代わりに、別の道を付けてくださった。独り子であるイエス・キリストを十字架にかけ、その独り子を陰府(地獄)にまで降らせることによって、私たちが陰府(地獄)に降らなくてもよい道を敷いてくださった方である、というふうに言えるのではないでしょうか。
 この方は、私たちが滅ぶことのないように、ご自分の命そのものである御子を差し出されました。私たちは、この恵みの深さにおいても父なる神に恐れを覚えるのです。

(6)キング牧師の「コーヒーカップ上の祈り」

私たちは、神を真に恐れるがゆえに、他の何ものも恐れず、正義のために闘った人々を知っています。アメリカ合衆国の黒人公民権運動のリーダーであったマーティン・ルーサー・キング牧師もその一人でありましょう。
キング牧師の最初の大きな運動はバス・ボイコット運動でありました。キング牧師たちがその運動を始めたその日、1955年12月5日から、彼は脅迫電話や脅迫状を受け取るようになります。その数は日に日に増していき、翌年(1956年)1月半ば頃には、1日3、40件に上っていました。1月の終わり、夜更けにやはり脅迫電話がかかってきました。「黒んぼ、お前については全部調べ上げた。来週にならないうちに、お前はモンゴメリーに来たことを後悔するようになるだろう。」
受話器を切った後、すべての恐怖心が一挙に押し寄せてきました。キング牧師は、脅しにはもう慣れっこになっているはずでしたのに、その夜は、どういうわけか身にこたえ、眠れなくなりました。
 彼はやり切れない気持ちになり、困惑し、起き上がってキッチンへ行き、コーヒーを温めます。夜、寝られない時は、コーヒーを飲まないほうがよいのではないかと思いますけれども、キング牧師はとにかくコーヒーを温めるのです。彼は座り込んで、いろいろなことを考えました。生まれたばかりの小さな娘のことを思いました。向こうで眠っている献身的な妻のことを考えました。彼女が私から取り去られるかもしれない。あるいは私が彼女から取り去られるかもしれない。そう考えると、もう耐えられなくなりました。キング牧師でさえも、そのような恐怖に襲われることがあったのです。
彼はうまく表舞台から身を引く方法を考えました。すると何ものかが彼に語りかけるのを聞くのです。
「お前は今、父親に話してはならない。母親に電話してもならない。お前はただかつてお前の父が語ってくれたあの方に語りかけなければならない。道なき所に道をお作りになるその方に語りかけるのだ。」
彼はコーヒーカップには手も触れず、テーブルに突っ伏して祈りました。
「主よ、私はここで正しいことをしようとしています。私はここで正しいと信じることのために立ちあがっているのです。しかし、私は告白しなければなりません。私は弱いのです。私は倒れそうです。勇気を失いそうです。……」
その時彼は「内なる声の静かな励まし」を聞きとるのです。
「マーティン・ルーサーよ、正義のために立て。真理のために立て。見よ、私はお前と共にいる。世の終わりまでも共にいる」
キング牧師は、その時のことをこう述懐しています。
「私は閃光の輝きを観た。雷鳴の轟きを聞いた。私は罪の大波が私の魂を征服せんと突進してくるのを感じた。だが私は闘い抜けと呼びかけているイエスの御声をも聞いた。彼は私を決して一人にはしないと約束してくださった。そしてその瞬間、私はそれまで一度も経験したことのない神のご臨在を経験した。と同時に私の恐怖心が消えた。何事にも立ち向かっていける心になっていた」(『マーティン・ルーサー・キング自伝』98~100頁)。
そう述懐しています。私たちにも同じように、共にいて共に闘ってくださる主イエス・キリストがおられることを感謝したいと思います。

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