1. HOME
  2. ブログ
  3. 2020年10月18日説教「真の強さとは」松本敏之牧師

2020年10月18日説教「真の強さとは」松本敏之牧師

真の強さとは

ヨハネによる福音書18章1~11節

(1)力強いイエスの姿

ヨハネ福音書を読み進めてきましたが、いよいよここから最後のクライマックスとも言うべき受難と復活の物語へと入って行きます。四つの福音書はそれぞれに受難と復活の物語を記していますが、その中でヨハネ福音書の受難物語は、独特の味わいをもっています。言い換えれば、他の三つの福音書には見られないイエス・キリストの姿を描いているのです。
それは、ひとことで言うならば、自ら進んで苦難を引き受けていく、力強い神の子の姿です。その典型的なことのひとつは、ゲツセマネの祈りがヨハネ福音書にはないということでしょう。他の福音書では、最後の晩餐の後、イエス・キリストは3人の弟子を連れてゲツセマネの園へ祈りに行かれ、そこで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られたことが記されています。もっともこの祈りは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と続くのですが、ヨハネ福音書では、最初からこの葛藤は、克服されたものとなっています。
ただ今日の聖書箇所の終わり、11節後半に、「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」とあります。読み過ごしそうな小さな言葉ですが、この言葉は、やはり「ゲツセマネの祈り」はあったのだ、ということを示しているようです。最初はイエス・キリストも受け身であったけれども、それを克服し、自らそれを受ける決意がなされていることが伝わってくるように思いました。

(2)イエスの逮捕

「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである」(1~2節)。
イエス・キリストは、祈りの後に、いつもの場所へ行かれたのです。それは、弟子たちといつも過ごされた場所でした。共に祈られた場所であり、お話をなさった場所でした。ですからイスカリオテのユダもそこを知っていたのです。
ユダが知っているところへわざわざ行かれたということは、逃げるために出て行ったのではないということです。このことはイエス・キリストは、これから起ころうとしていること、つまり逮捕され、裁判にかけられ、十字架にかかり、その上で死ぬということを避けておられないということを意味しています。ここにも、苦難をあえて選び取って行く決然としたイエス・キリストの姿が浮かび上がっています。
天の父なる神様とイエス・キリストの間では、すでに大事なことは決定されている。イエス・キリストは、ここで、自分を捕らえに来た人たちと向き合っておられますけれども、本当に向き合っているのは、天の父です。目の前にやって来た人々は、イエス・キリストにとって大した相手ではありません。彼らは、物語の進行を決定することはできません。本当にこの物語のシナリオを作っているのは、天の父です。
 ユダが引き連れてきたのは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちでした。「一隊の兵士」というのはローマ兵士のことです。ローマの兵士がイエス・キリストを捕まえる時から一緒であったと記しているのは、ヨハネ福音書だけです。これからイエス・キリストは、祭司長たちによる宗教裁判を経て、ピラトによる世俗的裁判を受けられます。その両方によって裁かれていくのですが、ヨハネ福音書は、それが最初から宗教的権威と政治的権威の結託したものであったことを言おうとしているのでしょう。
イエスを捕えに来た人たちは、松明とともし火と武器を手にしていました。「武器を手にして」というのは、恐れていたことの裏返しであったとも言えます。

(3)「わたしである」

 イエス・キリストは、ご自分の方から一歩進み出て、「誰を捜しているのか」と尋ねられました。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。「ナザレ」という言葉には、「田舎者」という軽蔑の意味が込められているのでしょう。彼らが捜していたのは、そのように田舎から出てきた一人のやっかいな人間です。秩序を乱す危険人物です。彼らの目の前にいるのは、確かにその「ナザレのイエス」なのですが、同時に、彼らが求めていた者以上のお方でした。彼らは期せずして神の権威に触れたのでした。
イエス・キリストは「わたしである」と答えられました。この言葉が発せられた時、彼らは「後ずさりして、地に倒れた」とあります。これもヨハネ福音書独特の表現です。いかにも力強いイエス・キリストの姿、そして言葉です。しかしこの力強さは内側から来るものでありました。声は決して、どなるような大きな声ではなかったでありましょう。むしろ「ナザレのイエスだ」と叫んだ兵士たちの声の方が、相手を威圧するような大きな声であったと思います。しかしイエス・キリストの、恐らく静かなその声は、相手を倒れさせる程の力にあふれていた。真の権威があった。決して空威張りのような権威ではない。
人の地位であるとか、肩書きであるとか、お金であるとか、名誉であるとか、そのようなものは、時に私たちを時に萎縮させるものですが、そうしたものを何一つ持たないのに、内側から相手を圧倒するような権威が、イエス・キリストの声と言葉にはにじみ出ていたのです。
しかしイエス・キリストの「わたしである」という声と言葉は、その言葉のもとに身を置こうとする者には、深い守りであります。ここでイエス・キリストは、同じ問いを二度も発し、二度も「ナザレのイエスだ」と答えさせ、二度も「わたしである」とこたえられた。それは、彼らにそのことがわからなかったからではないでしょう。
「わたしである」。これは、ヨハネ福音書に、これまで何度も出てきた「わたしは何々である。」(エゴー・エイミ)というのと同じ言葉です(「わたしはよい羊飼いである」「わたしは復活である」等)。ただし、ここでは「羊飼い」とか「復活」というような補語を置かずに、ただ「わたしである」(I am)とだけ出てきます。「わたしはある」とも訳せる言葉です。つまりこれは、旧約聖書の「『わたしはある』という者だ」という「神の名」に通じる言葉です(出エジプト3:14)。それは「ヤハウェ」という神の名の由来であると言われます。その神様の名前を示すように、「わたしはある」と、イエス・キリストはここに立っておられるのです。

(4)弟子たちを守るイエス

そして「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(8節)と言われました。その言葉は、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)と言われた言葉が実現するためであったというのです。これは17章12節を受けていますが、同時に、有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)という言葉をもほうふつとさせるものであります。
この言葉のおかげで弟子たちは逃げることができました。他の福音書ですと、弟子たちは自分の方から逃げ出したという書き方ですが(マタイ26:56等参照)、ヨハネ福音書では、イエス・キリストがあえて弟子たちを逃れさせてやったというのです。弟子たちを守るために、自分の方から一歩前に進み出られたのです。
 ただし、ただ単に弟子たちを、下役たちやローマの兵士から逃れさせるのであれば、もっと早く、つまりローマの兵隊たちが来る前に逃してやることもできたでしょう。そう考えると、「この人々は去らせなさい」という言葉には、もっと深い意味が込められているのではないかと思うのです。
最初に申し上げましたように、ここでイエス・キリストが本当に向き合っているのは目の前にいる人々ではなく、天の父なる神様です。ですから「自分はここにいます。弟子たちを逃れさせてください」と、(隠れた形で)天の父なる神様に向かって語られていると読むこともできるのではないでしょうか。

(5)ペトロの空元気

ここでそのやり取りを聞いていた弟子のシモン・ペトロが、自分のもっていた剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかって、その右耳を切り落としました。武力で襲いかかろうとする者に対する、彼のささやかな抵抗のようなものでしょう。あるいは、自分なりに、イエス・キリストを守ろうとしたと見ることもできるでしょう。
しかしそれはイエス・キリストの御心ではありませんでした。本当は、ペトロもびくびくしていたのです。真の強さとは、真の勇気とは、そんなものではないでしょう。
イエス様を守ろうとする。神の権威を守ろうとする。教会を守ろうとする。キリスト教を守ろうとする。そこに真剣に自分の身を置いている者には、ある意味で、自然な気持ちであるかも知れません。
しかし力で襲いかかるものに対して、同じように力で抵抗し、対抗していくことには本当の解決はないのです。このことは、何でも力で解決しようとする私たちの世界に対する一つの問いかけであると思います。
この時のペトロのように、本当に守られているのは私たちであるということを知らなければなりません。自分の力により頼んで、それを解決しようとするのは、むしろひとつの誘惑であると思います。悪魔は、それで敵対させることをねらっているのです。

(6)緊張がゆるめられる

 イエス・キリストは、「剣をさやに納めなさい」(11節)とおっしゃった。この言葉には、ペトロをいさめる気持ちと同時に、イエス様の優しさがにじみ出ていると思います。「そうする必要はないんだ」ということです。がちがちの緊張からゆるめられる。「私たちは今、何をしなければならないのか。」それはその都度、適切に判断して行く必要があります。しかし私たちが神様の計画を越えて行くことはできません。イエス・キリストの弟子として、大きな守りの中で、そのことを考えていけばよいし、考えていかなければならないのです。
 ペトロは恐らく「イエス様のため」と思ったのでしょうが、イエス様は逃げられませんでした。ペトロが考えたようにはことが進んで行きません。ペトロの目には、事柄はどんどん、どんどん悪い方へと進んでいくように見えたに違いありません。敵が勝利したように見える。しかしそうした中で確実に神様の計画は進行していたのです。
イエス・キリストは、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)と言われました。イエス・キリストには、天の父の計画に対する深い信頼があったのです。自分はその道を歩んでいく、それを弟子たちも受け入れていくように、という思いが込められていると思います。

(7)目の前の状況が悪く見えようとも

私たちの場合も、目の前にある状況は、自分の願っているのと反対の方向へ向かっているように見えることもあるかも知れません。しかし、そうした中でも、神様の計画は着実に進行しているのです。一見、突き放されたように見える時も、深い神様の計画の中で、それがなされているのであり、神様に真実に従っていく時に、必ずそれに答えてくださる。だからいらだたないで、まことの主を信頼して歩んでいきたいと思います。
 そしてこの言葉が真実であるために、主イエスはご自分の体を張ってくださったのです。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」「私がここにいますから、父よ、この人たちを災いから逃れさせてください。」そのように、大きな翼のもとに、弟子たちを置いてくださった。同じように私たち一人一人も、置いてくださるのです。
イエス・キリストは、旧約聖書にあらわされた「わたしはある」という神様の名前を、ご自分の存在そのものとして語られました。「わたしである。」「ここにいる。」この主の言葉に、私たちも自らを委ねて歩んでまいりましょう。

関連記事