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2020年6月7日説教「祈りつつ前進する」松本敏之牧師

祈りつつ前進する

申命記8章2~18節  ローマの信徒への手紙12章9~21節

(1)創立142周年記念礼拝

本日は、鹿児島加治屋町教会の創立142周年記念礼拝として、この礼拝を守っています。私が着任した2015年までは、創立記念礼拝の日の週報の裏面に、創立の経緯が記されていました。そこに記されていたことを紹介させていただきます。
「わが教会は、米国メソジスト派九州教区長デヴィソン宣教師によって、長崎美以教会(現長崎銀屋町教会)に次いで九州で二番目に創立された教会である。
 デヴィソン宣教師は1877年(明治10年)秋、飛鳥伝道師を伴い、鹿児島に視察にきた。当時メソジスト派は、会堂の諸経費はもとより人件費一切を宣教師会が負担していたので、会堂にあてる民家の借り入れ、その場所の選定は宣教師自ら現地視察のうえ決定していた。
 デヴィソン師が選定した民家の場所は、『鹿児島県史』、『鹿児島市史』によると、山下町(185番地)とある。西南戦争終了直後、山下町は士族戸数よりも平民の人口が多く、平民の中でも商人志向の者は文明開化、殖産産業の波に乗って、キリスト教に関心を寄せた。そこで山下町の民家を借りて会堂用とし、新興商人階層に伝道をくり広げようと志向した。同時に、教会学校は、安息日に聖書や讃美歌の学びをするだけではなく、平日でも開校して読み書きソロバン算数をも教え、そのための教師も雇い入れている。
 その後、1878年(明治11年)6月、山下町に鹿児島美以教会が設立(『鹿児島県史)された。
〈教会の名称〉
 教会の名称は、創立当初、鹿児島美以教会と称した。美はメソジストのメの漢字、以はエピスコパルのエの漢字で、メソジスト・エピスコパル・チャーチの略字である。その後1907年(明治40年)5月に、日本メソジスト鹿児島中央教会と呼称するようになり、1941年(昭和16年)6月日本基督教団成立後は鹿児島城南教会、また、1985年(昭和60年)8月1日から日本基督教団鹿児島加治屋町教会と改称された。」

そのように、日本基督教団鹿児島加治屋町教会史『恵みのみ手に支えられて』に記されています。ですから、1878年6月の設立、ということで、具体的に、6月何日ということはわからないようです。

 今年は、6月第一日曜日を創立記念礼拝とさせていただきました。
 私は、毎年大体4月のどこかの日曜日で、その年度の年間主題で説教をするようにしています。今年も4月26日に、そうするつもりで、4月予定表にも、説教題は「祈りつつ前進する」と記していました。ところが、この日から2回、新型コロナ・ウィルス対応策として、礼拝堂に集まる礼拝を休止しましたので、この説教は延期していました。ですからできるだけ早く、この年間主題で説教をし、これを心に留める1年の歩みをしたいと思い、本日にしました。またそのことは、教会の創立記念日にふさわしいことと思い、本日を創立142周年記念礼拝とさせていただいた次第です。

(2)祈りつつ前進する

 昨年度、私たちは「信仰に堅く立つ」という年間主題を掲げて歩みました。教会に対して、開示請求裁判が起こり、大きく揺さぶられた1年でした。そうした時に、私たちは、どんな嵐にも揺さぶられることなく、いや揺さぶられてもそのまま沈没することなく歩むために、「信仰に堅く立って歩みたい」と願ってのことでした。
開示請求裁判は無事に終わりましたが、まだなお教会は揺さぶられる要素をたくさん持っております。そうした中、私は、もう1年同じ、「信仰に堅く立つ」という年間主題を掲げてもよいのではないかと思いました。ただ今年独自のものを加えたいと思い、副題として、「祈りつつ前進する」というのを付け加えることを、役員会で提案しました。役員会で協議の結果、むしろこの「祈りつつ前進する」という言葉を、副題ではなく、主題とするほうがよいのではないかということになり、総会に提案し、可決された次第です。
今日の週報にも出ていますが、「信徒の友」5月号で、鹿児島加治屋町教会が5月31日に「祈る教会」として掲げられ、そこには「教会と付設敬愛幼稚園を取り巻く環境の安全が守られますように。どんな嵐が来ても、信仰に堅く立ち、祈りつつ前進することができますように」と書かせていただきました。「信仰に堅く立ち」と「祈りつつ前進する」の両方を掲げました。これが、心からの願いであります。

(3)主が訓練される

さて年間主題にあわせて、毎年、旧約聖書と新約聖書から一つずつ、年間聖句を掲げています。今年の年間聖句、まず旧約聖書は、申命記8章5節の「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」という聖句を掲げました。私たちは、試練に遭う時に、なぜこういうことが起きるのか、なぜ自分はこういう目に遭うのかと問います。それが厳しいと、神様はおられないのではないか。神様がおられるならば、こんなことが起きるはずがないとさえ、思ってしまうことがあります。しかし聖書は、言います。「そうではない。神様はあなたを愛されるからこそ、試練を与えられるのだ」と。それは他人がするようにするのではない。いじめようと思っているのでもない。まさに親が自分の子を愛するがゆえに訓練されるのと同じ仕方をもって、あなたがたに試練を与えられるのだと、告げるのです。
 申命記という書物は、旧約聖書の前から5番目の書物です。エジプトで奴隷であった神の民は、指導者モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンに向かいます。しかしその旅は、想像をはるかに超えて長い旅となりました。40年に及ぶ旅でした。しかもそれは荒野の旅、砂漠の道の旅でした。申命記という書物は、その旅の終わりに、モーセが遺言のようにして神の民に語ったという言葉です。モーセは、約束の地を、ネボ山という山の上から、はるかに見ながら、入ることは許されるないのです。その手前で死んでいくことになります。しかしこれからその地に入っていこうとする民に向かって、、神の民として生きる心得、戒めを語るのです。8章2節で、モーセはこう語りました。
 「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守ろうとするかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(2~3節)。
これは、イエス・キリストが、引用された言葉として有名です。イエス・キリストは40日40夜、荒野で断食をなさった後、悪魔から「神の子なら、これらの意思がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑を受けた時に、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とお答えになりました。その元の言葉が、この申命記にあるのです。さてモーセは続けます。
「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(4節)と語り、その後に、私たちの年間聖句が出てくるのです。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)。
そしてこのくだりの最後の部分でこう語るのです。
「あなたの先祖が味わったことのないマナを食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(16節)。いかがでしょうか。「ついには幸福にするためであった」というのです。すてきな言葉です。私たちが試練に遭うときには、「ついには幸福にするため」という神様の、長い視野における目的があることを思い起こして耐え抜きたいと思うのです。

(4)希望をもって喜ぶ

新約聖書のほうは、使徒パウロが記したローマの信徒への手紙12章12節の言葉であります。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」
 ローマの信徒への手紙は、12章から、「私たちはいかに生きるか」という倫理について記しています。その中で、12章9節から始まる段落に、新共同訳聖書では、「キリスト教的生活の規範」というタイトルがつけられています。
 「愛には偽りがあってはなりません。」と始まりますが、12節で、私たちの年間聖句、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」短い言葉ですが、三つの部分から成り、味わい深いものです。「苦難を耐え忍び」という言葉が、真ん中にあります。この言葉から、この手紙を受ける人たちには苦難があることを前提にしています。それを耐え忍びなさい、と告げるのです。そしてその言葉をはさむようにして、まず「希望をもって喜びなさい」と勧めます。「希望をもって喜ぶ」とは、どういうことでしょうか。パウロは、相手が苦難の中にあることを知っています。そこからすれば、喜ぶことなどできないことも知っています。それでもなお「喜びなさい」ということは、これは終末論的次元の話です。つまり、それが「やがて」克服された将来の視点から、「あなたはイエス・キリストにあって、それがやがて克服されるということを知っているだろう。その希望が与えられていることにより、喜びなさい」というのです。ヨハネ福音書16章33節の、有名な言葉を思い起こします。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と、イエス・キリストは語られました。これは、私の愛唱聖句です。もう一度言いますと、ヨハネ福音書16章33節の言葉です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」このローマの信徒への手紙の言葉にも、同じ響きがあります。さて、「苦難を耐え忍び」の後ろには「たゆまず祈りなさい」とあります。どんなに苦難を耐え忍ぼうと思っても、どんなに、希望をもって喜ぼうと思っても、私たちは弱いものです。信仰も弱いものです。そこで私たちを強くさせてくれるのは、やはり祈りです。祈りによって、私たちは、神様を、イエス・キリストを身近に感じ、支えられるのです。皆さん、「聖書を学び祈る会」を大切にして、祈るために、集っていただきたいと思います。
 パウロの「キリスト教的生活の規範」、この続きにも、珠玉のような言葉が続きます。その中で最も有名なのは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)という言葉でしょう。イエス・キリストはまさにこの言葉の通りに生きられた方でした。さてその続きにも大事な言葉が出てきます。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(17節)。これは難しいことです。だれかに悪いことをされたら、悪いことで仕返ししたくなります。そんなことをしたら、悪い人は悔い改めず、そのままのさばってしまうのではないかと気になります。しかしパウロはこう言うのです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(19節)。これは申命記32章35節の引用です。そして最後に、こう言うのです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。
これは実は大変難しいことだと思います。自分が安全地帯にいる時にはそのようにわかっていたとしても、自分が悪い人たちのターゲットになってやられた時、果たして同じように言えるのか。難しいことです。
そして誤解してはならないのは、このパウロの言葉は、決して悪に対して黙っていなさい。ただただ我慢しなさい、と言っているのではないということです。相手に復讐をするという形ではなく、悪は悪として告発していかなければならない。

(5)ブラック・ライブズ・マター

先日、アメリカのミネアポリスで白人警官による黒人の暴行死事件が起きました。今は殺人事件と呼んでいるようです。これに対して、抗議活動が全国に広がりました。それが今や世界に広がり続けています。その背景には、長年にわたるアメリカ社会における黒人のたちへの差別というものがあります。ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は重い)という運動の流れの中にある、と言っても良いでしょう。たまたま例外的な悪い白人警官がいた、ということではないのです。ですから、この抗議活動そのものを抑えるべきではありませんし、私たちはこの抗議活動に何らかの形で共同することそのものが求められているのです。しかしそのことは怒りを暴動という形でエスカレートさせてよいということではないでしょう。それはこの時殺されたジョージ・フロイドさんの弟テレンス・フロイドさんが訴えていることでもあります。テレンスさんは、「皆が怒る気持ちは分かる。でも、私が感じている怒りはそれ以上だ。その私はここで暴れていないし、破壊行為もしていない、自分たちのコミュニティーをめちゃくちゃにもしていない。それなのにみんなは何をしているんだ? それでは何もしていないのと同じだ。そんなことをしても、私の兄は帰ってこない」と述べ、各地で発生している暴力的なデモをやめるよう訴えました。
私たちは、安易に、自分が安全地帯にいるままで、この教えを人に強要してはならないでしょう。まずは、そのように犠牲になっている人たちに連帯をしなければならない。そして共感しあわなければならない。共感しあうということは痛みを分かち合うということです。その上でこそ、このパウロの教えは生きたものとなります。

(6)善をもって悪に勝ちなさい

パウロは勧めます。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。パウロは恐らく、本当にひどい仕打ちを受けた人の気持ちをわかった上で、こう書いたのだと思います。それが「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」ということなのだろうと思います。この言葉もわかりにくいですが、2種類の解釈ができます。ひとつは、「悪いことを続けるということは、自分の頭に燃える炭火を積むようなものだ。そんなことをする人は、自分で自分を燃やしてしまう。自滅の道をたどることになる。だからあなたは手を出す必要はない」ということです。もうひとつ考えられるのは、「こちらが復讐しなければ、相手の中に残っている何らかの良心の火というものが燃え立って、彼を自分で悔い改めに導くであろう」ということがあるかもしれません。これは、実際にはなかなか起こりえないようなことかもしれませんが、「神様がかかわられる時に、どんな奇跡が起こるかわからない。だから神様の御手に委ねよ」という解釈もできるのではないかと思いました。
いずれにせよ、自分を陥れようとする者と同じようなことをすれば、自分も相手と同じレベルの人間に成り下がってしまう。それは悪に負けることに他ならない。「高潔さをもって相手に接することで、『自分はあなたと同じではない』ということを示しなさい」というのです。なかなか難しいことですが、私たちも、このパウロの勧めを心に留めて、年間聖句を胸に、この1年間を過ごしていきましょう。

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