2020年12月6日説教「嘆きの地は主の愛受け」松本敏之牧師
嘆きの地は主の愛受け
エレミヤ書31章15~20節 マタイによる福音書2章16~18節
(1)世界大の広がりのコロナ禍
講壇のキャンドルに二つ火がともり、待降節第二主日を迎えました。
先週も述べましたように、鹿児島加治屋町教会では、今年のクリスマス、「来たりたまえわれらの主よ」というテーマを掲げて歩んでいます。これは、『讃美歌21』241番の1節の最初の言葉です。アドベントの季節、毎週、この賛美歌のワンフレーズを説教題としていますが、今日は2節の冒頭の言葉「嘆きの地は主の愛受け」という言葉を説教題としました。内容的には、その次の行の「希望の光はのぼる」までを含めて、み言葉を聞いていきたいと思います。
今年、私たちはこれまで経験したことのないようなコロナ禍を経験しています。まさに世界中が嘆きの地となっていると言っても過言ではないでしょう。嘆きが同時的に、これほど世界的な広がりを見せたことはかつてなかったと言ってもよいでしょう。しかしその嘆きは決して嘆きで終わることはないでしょう。そこに必ず「希望の光はのぼる」という信仰をもつことが、許されるのではないでしょうか。
(2)ヘロデの幼児虐殺事件
実は、イエス・キリストがお生まれになった最初のクリスマスの時にも、「嘆きの声」がベツレヘム一帯に満ち溢れました。2千年前の最初のクリスマスも、決して平和なクリスマスではなかったことを思います。これは「ヘロデの幼児虐殺事件」と呼ばれる残酷な話です。
この直前のところは、東の国の占星術の学者たち(博士たち)が黄金、乳香、没薬の贈りものをもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝しにやってきたという美しい物語でした。彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ね、こう言いました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2・2)
ところが、それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位がおびやかされるのではないか」と不安になり、一計を案じるのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(同8節)。もちろんそれは、嘘です。彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、暗殺しようと企んだわけです。
しかし占星術の学者たちは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で「ヘロデのところへ帰るな」(同12節)とのお告げを聞き、別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒します。そして、「二歳以下の男の赤ちゃんを一人残らず殺せ。皆殺しにせよ」という命令をくだすのです。
(3)ラマにあったラケルの墓
クリスマスの喜びの歌声が、自分の子どもを殺された母親の泣き叫ぶ声でかき消されるようです。マタイはこう記しました。
「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
『ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから』」(17~18節)
ラマというのは、ベツレヘム、あるいはその近くにあった古代の町です。ラケルの墓はそこにありました。ラケルというのは、創世記に出てくる女性、イスラエルの族長であったヤコブの妻であった人です。ヤコブというのは、否定的な意味合いをもつ名前でしたが、後にイスラエルという祝福された名前を神から与えられるのです(創世記32・23~29)。イスラエルとは、「神は支配し給う」という意味です。ラケルはその「イスラエル」という名前の男(ヤコブ)の妻ですから、イスラエル民族の母のような意味合いをもっているのでしょう。そのラケルが泣いている。墓の中から泣いている。子どもが取られたから。ここに「預言者エレミヤを通して言われていた」ことが実現した」と記されているとおり、この言葉はエレミヤ書からの引用です。
(4)バビロン捕囚時の嘆き
エレミヤ書31章15節にこう記されています。
「主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから」
ここには、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史が重ねられています。それは紀元前6世紀のバビロン捕囚という出来事でした。イスラエル王国はダビデ王、ソロモン王の時代には栄華を極めるのですが、その後どんどん落ちぶれていきました。さらに国は北王国イスラエルと南王国ユダの二つに分裂しました。エレミヤの時代にはすでに北王国は滅び、南王国もバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。紀元前6世紀のことです。
このラマはバビロンに連れて行かれた時の通過点であったと言われます。その連れて行かれる人を見て、「ラケルが墓の中から泣いている。慰めてほしくない。子どもはもう帰らないのだから」ということなのです。
(5)今日までも嘆きがこだましている
マタイはこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。あのエレミヤの預言の言葉が、今ここに実現している。ラケルの泣き声が時代を超えて、こだましている。バビロン捕囚の時代の母親の嘆きと、クリスマスの時のヘロデ王に殺された子どもの母親の泣き叫ぶ声がこだましている。
私は、このラケルの泣き声は、今日までもこだましていると思います。その泣き声はあのラマ、イスラエル、パレスチナを超えたところでも、こだましています。イラク戦争の折には、アメリカの誤爆により、そこで子どもを失った母親の泣き声を聞きました。あのラケルの泣き声が地球全体をおおいつくすようにこだましているのです。
2千年前にこの泣き声を生み出したものは、ヘロデ王の敵意でした。それが力をもたない者の上にふりかかってくるのです。力をもつ者、権力をもつ者、武力をもつ者の敵意、それが罪のない人々の死と、その家族の嘆きを生み出すのです。
(6)あなたの未来には希望がある
しかし、いかがでしょうか。今日の聖書箇所は、確かに、そうした暗い出来事、嘆きの声が響き渡るような現実が存在するということを告げています。今もその通りです。ただそうした中にあっても、確かな希望を告げています。エレミヤ書の場合も、マタイ福音書の場合もそうです。
エレミヤ書で、マタイ福音書が引用しているのは、31章15節の言葉でした。
しかし16節で、こう続きます。
「主はこう言われる
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る」
エレミヤ書という書物は、前半部分では随分厳しい言葉を語ります。「そんなことをしていたのでは国は亡びてしまうぞ。悔い改めなさい」という厳しいトーンなのですが、一旦、バビロニア軍によってエルサレムが陥落し、指導者たちがバビロンに捕らわれてしまってから後は、一転して救いの預言、回復の預言を語り始めるのです。この31章は、その典型、ピークとも呼べる言葉です。「あなたたちの未来には希望がある」。いい言葉はいいですね。時代を超えて、状況を超えて、私たちにも直接響いて来る言葉です。新共同訳聖書になってから、これを愛唱聖句にした方も多いと聞いています。
(7)「新約」という言葉の語源
さらに、このエレミヤ書31章の先を読んでいきますと、驚くべき言葉が出てきます(31章31~33節)。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(31~33節)。
この言葉は、「新約聖書」の「新約」という言葉の語源です。モーセに対して与えられた律法、それは石に刻まれた律法でした(十戒)が、今度は胸に直接、刻むというのです。それはイエス・キリストによって成就する新しい律法と言えるのではないでしょうか。
もちろんエレミヤはそこまで考えていなかったでしょうが、そうした「新約」の幻、ヴィジョンを、神様はエレミヤを通して私たちに与えてくださったというふうに、キリスト教の視点から言えば、言うことができるのではないでしょうか。
(8)主はイエスを守られた
もうひとつ、マタイ福音書ではどうでしょうか。一見、絶望しかないように見える物語ですが、ここにも希望があります。それは、どのようなヘロデ王の敵意も、あるいは彼の暴力も、軍事力も、イエス・キリストを見つけだして、殺すことはできなかったということです。神が守ろうとされるものには、どんな力も及ばない。それは、彼がこの時死んではならなかったからです。彼(イエス・キリスト)が死ぬべき時は、別に定められていました。ですから、神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。このことは私たちの希望です。
私たちは、敵意がぶつかる中で起こる痛ましい現実について、ラケルと共に嘆かなければならないでしょう。またそのような現実を生み出している「敵意」というものを、憎まなければならないでしょう。そうした悲劇が一日も早くなくなるようにと、真剣に祈らなければならないでしょう。またコロナ禍にあって、苦しみ、嘆いている人たちのことも忘れてはならないでしょう。
しかしそういう暗い現実の中にあっても、幼子イエスは不思議にも守られ、生き延びた。聖書は、そのことに私たちの目を向けさせようとします。私たちはそのことを信じるがゆえに、どんな時にも希望をもって、この世の困難な課題に、真剣に、なおかつ心のゆとりを失わないで、立ち向かう勇気が与えられるのではないでしょうか。