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2020年10月4日説教「ひとつになるため」松本敏之牧師

ひとつになるため

ヨハネによる福音書17章20~26節

(1)世界聖餐日・世界宣教の日

本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であり、同時に日本キリスト教団では、この日を世界宣教の日と定めています。
世界聖餐日というのは、「第二次世界大戦の前に、アメリカの諸教派でまもられるようになったもので、戦争へと傾斜していく対立する世界の中で、キリストの教会は一つであることを、共に聖餐にあずかることによって確認しようとしたもの」であります。「戦後、日本キリスト教団でもまもられるようになり、同時に『世界宣教の日』として、キリスト教会は主にあって一つなのだから、世界宣教を共に担う祈りと実践の日と定め」られました。(大宮溥、『信徒の友』2004年10月号より)。
私たちは4月以降、新型コロナウイルス感染症予防のために、聖餐式をとりやめています。今、聖餐式がまた実施できるように、いろいろと知恵を出し合っていますので、もうしばらくお待ちいただきたいと思います。残念ながら今年の世界聖餐日は、聖餐式なしで礼拝を守ることになりましたが、そこに込められた精神はしっかりと理解してこの礼拝を守りたいと存じます。
この世界宣教の日が世界聖餐日にあわせて定められたというのは、興味深いことです。というのは、世界宣教というのは外へ外へと延びていくことですし、世界聖餐日は、違ったものの一致を目指すものだからです。遠心的な運動と求心的な運動、下手をすると矛盾しかねない。欧米の教会は、20世紀前半まで、世界のまだキリスト教を知らない地域にキリストを知らせるということで世界中に宣教してきました。そのおかげで日本にもキリスト教が伝わり、私たちもイエス・キリストの福音に触れることができました。しかし、それは欧米列強の進出(帝国主義的進出)と裏表であったことも覚えておかなければならないでしょう。教会がそれを正当化してきたという面もあるのです。今日の世界の争いもそうしたことと無関係ではありません。世界聖餐日がそうした背景、つまり争いへの反省から始められたというのは意義深いことであると思います。
世界が一つであるために、まず教会が一つであらねばならない。そのためにはまず共に聖餐式をまもること、それが無理でも、それぞれの聖餐式で、世界の教会に思いをはせること、教派の違いを超えて祈りあうこと、国を超えて祈りあうこと、それが出発点だということが込められているのではないでしょうか。

(2)エキュメニカルとは

さて今日は、ヨハネ福音書の続き、すなわち、17章20~26節をお読みいただきましたが、その中に、この世界聖餐日、世界宣教の日にとって大事な言葉が出てきます。
それは、

「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ17・22)

という言葉です。これはエキュメニカル運動というものの大事な原点になった言葉です。エキュメニカル運動については、後でもう一度申し上げますが、エキュメニカル運動の本拠地ともいえるジュネーブにあるWCC(世界教会協議会)の本部前には、この主イエスの言葉が刻まれているのです。
皆さんは、「エキュメニカル」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。私は、4年程前に、『そうか!なるほど!!キリスト教』という本を監修して出版しましたが、監修者の私自身も、50の問いのうち、3つの問いを扱いました。「キリスト教は他宗教をどのように考えているの?」という問い、「解放の神学って何を解放するの?」という問い、そして「エキュメニカルって、どういうこと?」という問い、この三つです。監修者の特権で、自分で何とか答えられそうな問答を先に確保し、その他の苦手のところをいろんな方々に割り振って答えていただきました。
その「エキュメニカルってどういうこと?」という問いに、私自身は、こう書きだしました。
「日本語にするのが難しいのですが、あえて訳すならば、『世界教会的な』『教会一致の』となるでしょうか。語源的には、『人が住む世界』を意味する『オイクーメネー』というギリシア語に由来します。皇帝アウグストゥスが住民登録を命じた『全領土』もこの言葉です(ルカ2・1参照)。さらに『オイクーメネー』という言葉は、『家』を意味する『オイコス』という言葉にさかのぼることができます。
『エキュメニズム』(エキュメニカルであること)とは、この地球が神の『大きな家』であることを覚え、そこに住む人々が互いに尊敬しあい、自然を大切にし、共に生きるということになるでしょう。ちなみに『オイコス』は、エコロジー(生態学)、エコノミー(経済)の語源でもあり、これら三つは深いところでつながっています。それぞれの視点から、『大きな家』について考えることなのです。
教会の歴史においては、古くから(325年の第1回ニケア会議以降)広い地域に散在する諸教会の対話に基づく会議のことを『エキュメニカルな会議』(公会議)と呼んできましたが、この言葉が特別な意味をもつようになるのは20世紀以降の『エキュメニカル運動』においてです。」
問い 20世紀にどういうことが起きたのですか。
答え それぞれで活動していた教会・教派が出あい、共通の課題に取り組むようになります。20世紀前半に始まった「世界宣教会議」、「生活と実践」世界会議、「信仰と職制」世界会議等が合流して1948年に世界教会協議会(WCC)が創立されました。
WCCは、創立直後(1951年)に、エキュメニズムを、「全世界に福音を宣べ伝える全教会の課題全体にかかわるすべてのこと」と定義しています。ジュネーブにあるWCCの本部前には、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ17・22)というイエスの言葉が刻まれていますが、この言葉こそがエキュメニカル運動の原点であり、原動力であったと言えるでしょう。
20世紀後半になると、「正義」、「平和」、「人権」、「いのち」(エコロジー)、「諸宗教との対話」などが教会の大事な課題と受け止められるようになり、エキュメニカル運動の中心的テーマとなってきました。

(3)後の時代の弟子たちのために

さてヨハネ福音書の17章は、イエス・キリストの長い執り成しの祈りです。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」という言葉に続いて、「父よ、時が来ました」(1節)と、イエス・キリストの祈りが始まります。
6節から19節は、イエス・キリストの目の前にいる弟子たちのための執り成しの祈りでありますが、それを受けて、今日の20節から26節は、後の弟子たちのための執り成しの祈りであります。
「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。
イエス・キリストの祈りは、空間的にも時間的にも、大きく広がっていきます。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々。」つまり、まだ存在しない後の教会の人々をも見ておられる。信仰の幻です。その人々のために、イエス・キリストがここで祈られたということは、この祈りには、私たちも含まれているということです。私のために、私たちのために、イエス・キリストは、すでに十字架の前夜、祈ってくださっていたのでした。また「彼らの言葉によってわたしを信じる」ということで、宣教の働きが、まさにみ言葉の宣教、つまり説教という手段によって担われてきたということを、改めて深く、重く思います。
そして「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(21節)。
ここでイエス・キリストと父なる神はすでに一体であるということが前提になっています。それを基礎にしながら、イエス様と父なる神様の交わりのただ中にすべての人を入れるような、大きな祈りです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。何とスケールの大きな祈りでしょうか。イエス様の宣教の目的が、外へ外へと広がって、すべての人が神をあがめるようになることと同時に、すべての人が一つになるということが見えてまいります。
「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(23節)。
エキュメニカル運動というのは、ただ単に伝統や思想の違う教会がお互いに譲り合って、いわば妥協して、一致点を見出してやっていくことではありません。イエス・キリストがすでに、父なる神様との間にもっておられる豊かな交わりに、私たちも引き入れられて一つになっていくということが根底にあるのです。

(4)宣教の最終目的

「こうして、あなたがわたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)。
ヨハネ福音書では、「世」という言葉が二重の意味で用いられているということを何度も申し上げてきました。「世」はイエス・キリストや父なる神様と敵対するものであると同時に、イエス様が愛して、愛して、愛し抜かれた、イエス様の愛の対象でありました。「世」の方はそれを知りませんでした。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)。

この「わたしのいる所」というのは、死後の世界、ということも含まれていると言ってもよいかもしれません。これほど力強く、慰めに満ちた言葉はないでしょう。
「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。
そして続けます。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(25~26節)。少しまわりくどい言い方ですが、ここに宣教の最終目的が記されています。イエス・キリストの壮大な祈りです。まだ見ていない、弟子たちの言葉によってこれから信じるようになる人々。空間的にも時間的にも大きな広がりをもっています。その人たちがすべて一つになる。主をあがめ、紛争がなく、愛の内に一つとなっていく。イエス様はそういう幻を見ておられたのです。そしてそうしたことは、やがて終わりの日に完全に達成されるものでありましょうが、私たちはやがてくるそうした神様の御国を仰ぎ見ながら、それをすでに先取りするように一致の幻を見ることを許されているのではないでしょうか。

(5)エキュメニカル賛美歌

これから歌います「すくいの道を」(『讃美歌21』409番)は、興味深い賛美歌です。右上にECUMENICALという題が付けられています。「プロテスタント教会とカトリック教会が共に歌える賛美歌を出そう」と言うことで、1976年に『共に歌おう』(通称、第3編)が発行されました。「すくいの道を」は、このエキュメニカルな賛美歌集のための委嘱作品として、いわば看板曲として、プロテスタントの牧師である由木康氏とカトリックの作曲家高田三郎氏の共作として作られ、『ともに歌おう』第1番として収められていたものでした。その中の2節に、

「時代はうつり、風土は変わり
主にある民は分かれても
みことばをのべ、ともにパンをさく
主の教会は ただひとつ」

という言葉があります。歌詞のほうはプロテスタントの由木康牧師です。この歌詞は、プロテスタントの牧師だから書けたのかなと思います。なぜならカトリックの聖餐(聖体拝領)に、プロテスタントの信者が与ることは、まだ実現していないからです。もちろん信仰の幻として、「ともにパンをさく」ということが見据えられているのは言うまでもありません。

(6)すべての人を一つにしてください

22節に「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」とありますが、この「彼ら」というのは、よく読むと「弟子たち」のことだと分かります。ですから、それはいわばクリスチャンたちがひとつになるため、、「すべてのキリスト教が一つになる」、「教派を超えて、クリスチャンがひとつになる」という狭義のエキュメニカル運動の目標、めざしているものと合致することがわかります。
私が興味深く思うのは、その前の21節の「すべての人を一つにしてください」という主イエスの祈りの言葉です。これは、22節の「クリスチャンが教派の違いを超えてひとつになる」ということをさらに超えているのではないでしょうか。クリスチャンであるかどうかをさえ超えているのです。もっと深い一致をめざしている。
私は、本当のエキュメニカル運動というのは、そこまでのことが視野に入っているのでなければならないと思うのです。すべての人が、この地球を「神の大きな一つの家」として生きることができるようになるため、ということが、イエス・キリストの祈りの中にが込められていると思うのです。

(7)第二イザヤの言葉

イエス・キリストよりもはるか昔に、預言者第二イザヤはこう言いました。

「地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」
(イザヤ書45:22~24)

私たちもこうした言葉を心にとめ、ひとつであるために祈りを重ねていきましょう。

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