説教 「神は、この世界をこのままにしておかれない」1996年12月
「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
(ルカによる福音書1章51~55)
クリスマスのたびに、マリアの賛歌を読みつつも、わたしたちはいつも、その後半を読み過ごしたり、都合のいいように曲解してしまう。わたしたちは決して飢えてはいないし、どちらかと言えば富んでいるから、この言葉は心地よく響かない。またその過激な内容は、クリスマスにふさわしからぬ物騒なことを語っているように思える。しかしクリスマスの物語は、わたしたちの世界の歩むが、おおむね間違っていないと思っている者にとっては、やはりショックなほど物騒な何かを含みもっている。神が世界をくつがえされる時がくる。イエス・キリストの誕生はその始まりを告げている。マリア(あるいはこの歌の著者)は、神が正義と公平と慈しみの神であるならば、その神が来られるときに、約束の成就として、一体この世界にどういうことが起きるかを、確信をもって歌った。彼女自身、抑圧や搾取や不正に苦しんでいたのであろう。それがひしひしと伝わってくる。抑圧や搾取や不正というものは、受けている側は、それが何を意味するか身に染みてわかるけれども、与えている側は、よほど注意して人の言うことに耳を傾けない限り、気づかないものである。つい自分は中立だと思ってしまう。
わたしは1989年に日本を離れ、ニューヨークのユニオン神学校における学びの中で、初めて解放の神学のダイナミズムに触れた。解放の神学については、すでに日本語でさまざまな形で紹介されていたにもかかわらず、その鋭いチャレンジを、本気で受けとめてはいなかった。最初から批判的なメガネでしか見ていなかったこともあろう。また日本の中にいる限り、搾取や抑圧などあまり関係ないかのように見えたこともあろう。しかし、国際的に見れば、それは明らかに存在し、日本の繁栄はそれらの犠牲の上に成り立っている。「何を今さら当たり前のことを」と思うわれる人も多いであろうが、恥ずかしながら、わたしは日本を外から眺めてみて初めて、つくづくそのことを思い知った。
第三世界から聞こえてくる次のような言葉が、わたしに重くのしかかってきた。「わたしたちにとって、神がいるかいないかということは問題ではない。問題はこの圧倒的に不公平な現実、ある人が別の人に抑圧され、搾取されている現実の中で、神は一体だれの味方をしているのかということである」。解放の神学がわかるかどうかは、この重い「現実」を認識しているかどうかにかかっている。自分が中立だと思っている人には、決してわからない。
わたし自身は、解放の神学者ではありえず、バルトやボンヘッファーから多くのことを学んでいる一人の牧師に過ぎないが、この第三世界から聞こえてくるチャレンジ、あるいはそれを代弁する解放の神学者たちのチャレンジに、それなりにこたえられる歩みをしたいと願っている。5年前、サンパウロにおける日本人教会の牧師として、ブラジルに行く決心をしたことも、今年その任期を終えるにあたり、新しくブラジル・メソジスト教会で働く決心をしたことも、そのことと無関係ではない。
「わたしは貧しい子どもです。わたしの兄弟たちのために食べ物を買う援助をお願いしています。わたしたちには食べる物がありません。どんな小銭でもお恵みください。でももっておられなければ気にしないでください。その場合も同じように、あなたのためにお祈りします。ありがとうございます」。
サンパウロで地下鉄に乗っていると、小さな子供が上のような言葉を書いた紙切れを配りながらやってきて、しばらくすると、その紙と小銭を回収にくる。ブラジルでは、全くありふれた光景である。「いちいちかかわっていたらきりがない」。「甘やかせていたら、くせになる」。「大人がうしろで彼らを操っているのだから、彼らにお金をあげても仕方がない」。「どうせまた作り話だ」。いろいろな思いが胸をよぎりつつ、完全に無視することもできず、わたしは財布の中の一番小さな小銭を探すのである。彼らがわたしより圧倒的に貧しいことは明らかであり、わたしは彼らの姿の中に、何かキリストの気配のようなものを感じるからである。
「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)。
ある調査によれば、ブラジルでは、人口の43パーセントが貧困状態(最も基本的な生活を営むのに困難な状態)にあると言う。ブラジルでは、赤道に近い北東部の貧困が最も厳しい。特に海岸から少し離れた地域はセルトンと呼ばれ、乾燥気候で、土地も貧しい。ブラジル北東部では、開拓以来、現在にいたるまでほんの一握りの金持ちファミリー(たとえば、ペルナンブッコ州では、9つのファミリー)が、政治経済など重要なことのすべてを支配しており、「土地なき民」は限りなく貧しい。この貧しさから逃れるべく、サンパウロへ毎日数百人の人がなだれこみ、現在では、サンパウロの人口一千数百万のうち、北東部出身者およびその子どもたちは40パーセントにのぼると言う。
ブラジルの解放の神学やカトリック教会の解放運動は、この北東部から始まった。キリスト教基礎共同体を中心に、民衆の識字教育や意識向上運動を進めたドン・エルデル・カマラ大司教は、北東部ペルナンブッコ州の州都レシフェ/オリンダの大司教であった。
ドン・エルデル・カマラ大司教は、ヨセフとマリアのベツレヘム到着の物語(ルカ福音書2章4~7)を指して、こう語っている。
「たとえばわたしたちのところのような、世界のある場所においては、ほとんど毎日このような情景を、身をもって体験することができます。”土地のドラマ”を通して、実際にそこに生きているからです。大企業が奥地の方で何エーカーもの土地を買い上げます。するとそこに何年も何年も住んでいた家族は、そこを去らざるを得ません。そして例えばレシフェのような都市にやってきて、住むところを探します。しばしば妻は妊娠しています。最後にはみすぼらしい小屋(小屋以下だと言ってもいいでしょう)を建てるのです。そこはいつも沼の近くで誰も住みたくないところです。そしてそこでキリストは生まれます。そこには牛もろばもいませんが、豚がいます。豚と、時々にわとりが。これが飼い葉桶、生き生きと実在する飼い葉桶です。
当然のことながら、クリスマスには、私はいろんな教会でミサを祝いますけれども、こうした生き生きとした飼い葉桶のどこかでミサを立てるのが好きです。どうしてキリストの歴史的生誕地、ベツレヘムへ巡礼に行く必要があるでしょうか。この日のあらゆる瞬間に、ここで実際に、キリストがお生まれになっているのを見られるのですから。その子はジョアン、フランシスコ、アントニオ、セバスチャン、セヴェリーノと呼ばれます。でもキリストなのです。」
(THROUGH THE GOSPEL WITH DOM HELDER CAMARA:ORBIS,NEW YORK 1986, P.14)
今日、ブラジルの解放の神学は、軍政から民政に変わったこともあり、正面からぶつかる相手を見失った観がある。また世界全体が右傾化する中で、どんどん影響力が弱くなっていることも否めない。しかし解放の神学を生み出した社会状況、圧倒的に不公平な社会構造と貧困の現実は、何ら変わっていないのである。
ブラジルに限らず、地球全体をおおう状況も同様であろう。圧倒的な貧富の差が、第三世界の国内で、また北と南の国の間で存在する。かつて人はそれぞれの地域で、ある程度完結して生きていたが、今日、地球はどんどん小さくなって、ボーダーレス、グローバリゼーションの時代になった。しかしそういう状況の中で、わたしたちは豊かさを分かちあうことなく、ある人たちがそれを独占し、他の人たちはますますそれに隷属するようになってきている。ブラジルにいると、そうした世界の縮図を身近に見ているようである。「情報化時代は、持てる者と持たざる者の差をより決定的にする。持たざる者はいくらがんばっても追いつかない」とある人が語っていた。せいぜい10億か15億の人に、残りの40~50億の人が隷属するという世界のイメージ。ああ何と「神の国」から遠いイメージであろうか。
しかしまことの支配者である神は、この世界をそのままにはしておかれない。「マリアの賛歌」は、それを高らかに宣言している。クリスマスはわたしたちの立っているところを根底から揺さぶりつつ、この神と共に歩むことへとわたしたちを招いている。そしてわたしたちが新しいときに向けて一歩を踏み出すとき、そこには、分かちあいの豊かな世界が用意されているのである。
「神は、その民と共に歩まれる新しい時に向かって
わたしたちを召されます。
どうしようもない状況から変革の時が来ています。
でも一人で孤立していては何もできません。
だからさあ、わたしたちの輪に入ってください。
あなたがとても大事なのです」。
(ブラジルの新しい賛美歌、MOMENT NOVOより。
この讃美歌は「あたらしいときをめざし」と題して『讃美歌21』に収録されます。)
(松本敏之)(雑誌『福音と世界』1996年12月号掲載)