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かごっま通信 6(「時の徴」150号掲載 2018年1月発行)

松本 敏之(編集同人)

 

宗教改革500周年の年

2017年は宗教改革500周年記念の年であり、全国、そして世界各地でさまざまな行事が行われたことと思う。鹿児島でも、私が牧師を務める鹿児島加治屋町教会を会場に四つの行事が行われたが、ここでは以下の二つを紹介したい。

 

鹿児島宗教者懇和会の集会

一つは、9月30日に鹿児島宗教者懇和会の主催で行われた集会である。

「鹿児島宗教者懇和会」とは、2011年5月、東日本大震災を機に宗教者が力を合わせて何かできないかということで、神道、仏教、キリスト教、新宗教の宗教者らによって発足したものである。「共に生き・共に和する」を理念とし、宗教者が自主的な立場で集い、交流・親睦を深め、相互理解と協力の輪を広げ、宗教者共通の願いである世界平和の実現に向け、行動することを目的としている。7年目の今年度は、キリスト教が幹事となり、カトリック鹿児島司教区の郡山健次郎司教が会長を務めてくださっている。特定の宗教の影響を受け過ぎないようにという配慮からだと思うが、各宗教、各教派からの協賛金のようなものはなく、あくまで主旨に賛同する宗教者が個人で参加することになっている。

宗教者懇和会では、毎年担当年の宗教団体が学習会を主催する。たいていは、その宗教団体の儀式を見学・参加し、その所作などについて解説してもらって学習している。

今年は、カトリックの司教が会長を務めてくださっているので、会場はプロテスタントの鹿児島加治屋町教会でということになった。しかし日本キリスト教団の教会では他の宗教やカトリックのような印象的な所作もない。そこで私は言葉を大事にするプロテスタントならではの学習会を考え、鹿児島にふさわしい、しかも「宗教改革500周年」にちなんだエキュメニカルな集会をという提案をし、受け入れられた。「宗教改革がなければ、イエズス会もできていなかっただろう。イエズス会がなければ、ザビエルは鹿児島へ来ていなかっただろう」と、やや強引に結び付けた。

講師は、キリシタン時代の歴史に詳しい川村信三神父(イエズス会司祭、上智大学史学科教授)にお願いをした。 当日の演題は「カトリックから見た宗教改革、そしてイエズス会と日本宣教」。広範なテーマであったが、見事に結び付けてくださった。

私は、「宗教改革があったから、カトリックの刷新運動が起こり、イエズス会もできた」と認識していたが、川村氏はむしろ、アッシジのフランチェスコに始まる回心「心の改革」(レフォルマツィオ)の運動の延長線上に、ルターの改革を位置付け、その流れにおいてイエズス会の創設者イグナチウス・デ・ロヨラの「霊操」を説明されたことは印象的であった。

また川村氏は、ザビエルが鹿児島滞在中に宿所とした禅寺福昌寺で日本人からさまざまな質問を受けたことにも言及された。この時ザビエルを最も困らせたのは「神が善であり、完全である方であれば、どうしてこの世界に、悪や罪が存在するのか」という問いであったという。これは確かに難しい問いで、古今東西の多くの学者たちがさまざまな答えを試みているが、どれもあまり成功しているとは言えない。川村氏は、この難問に一番答えらしい答えをしているのはマルティン・ルターであると言う。ルターは、「神の業を、人間の側で詮索してはいけない。やがてすべてが明らかになる日が来る。それまでは、人間はただ畏れの念を持ち、祈りつつ、その日を待つように」と述べたという。

東日本大震災の直後、日本に住む7歳の少女(エレナ・マツキさん)が、当時のローマ教皇ベネディクト16世に「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」という問いを投げかけたが、この問いもさきの質問に通じるものであろう。それに対してベネディクト16世は、こう応えた。「私も自問しており、答えはないかもしれない。キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる。悲しさは消えない。しかし、世界中の人たちがあなたたちのことを思っており、私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る。」この問答は、有名になったので、記憶にある方もおられよう。この教皇の答えは、川村氏によれば、先ほどのルターの言葉にさかのぼるものであるという。宗教改革者の言葉と21世紀の教皇の言葉を関連付けられたのは、興味深いことであった。

川村氏の主題講演の後、私が「プロテスタント・エキュメニカルな視点から」と題してレスポンスをし、鹿児島司教区の頭島光神父が「映画『沈黙』から見た宗教対話」と題してレスポンスをした。違いを違いとして尊重しながら、エキュメニカルな対話において、宗教改革を記念する集会をもてたこと、またそれを他宗教の方々も交えて行うことができたのは、とても意義深いことであったと思う。

 

日本キリスト教団鹿児島地区信徒大会

11月3日には、『ルターから今を考える 宗教改革500年の記憶と想起』の著者である小田部進一氏(玉川大学教授[現在は、関西学院大学教授]、日本キリスト教団牧師)を講師として、「宗教改革500周年を記念するということ」をテーマに、鹿児島地区信徒大会が開催された。小田部氏は、「若きルターの生涯と思想~ルターはなぜ95か条の論題を公表したのか」、「ルターから今を考える~宗教改革は現代に何を問いかけているのか」という2回の講演をしてくださった。それらを詳しく紹介することはできないが、小田部氏も、現代のカトリックとプロテスタントのエキュメニカルな対話の意義や成果を紹介されたことが心に残った。

1999年、20世紀の最後の年の宗教改革記念日10月31日に、ドイツのアウクスブルクで、ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟は「義認の教理に関する共同宣言」に調印したが、その内容は、「500年前には両教会の分裂の原因となったとされる『義認の教理』が、両教会にとって、今は、もはや一致を妨げる原因とはならない」というものであった。

小田部氏は、2017年9月に東京のルーテル学院大学で開催された日本基督教学会でのテオドール・ディーター氏(ストラスブールのエキュメニカル研究所所長)の講演の一部を紹介された。ディーター氏は、この調印にいたるまで裏方として地道に働いてきた人であるが、「両教会がどのようにして一致に至ることができたのか」について一言で言えば、「相手の言葉を理解する努力だ」と述べられたそうだ。具体的には「幅のある合意」という方法が用いられたという。「幅のある合意」とは、たとえ同じ言葉を用いたとしても、相手の意図や文脈によって、その言葉は異なる内容をもちうる。そのお互いの異質さを受け容れた上で、表現や強調点の違いはあったとしても、内容について合意できる限りにおいて、互いの相違を受け容れることだと言う。そのような方法で、粘り強く対話を続けてきた結果、両教会が袂を分かち、互いに非難し合う原因となっていた重要な教理の一つである「義認の教理」は、もはや二つの教会を分かつ原因ではないということが共同で宣言されたのである。

小田部氏は、「相手の言葉を理解できるまで徹底して対話を続ける態度」とまとめられたが、まさにその姿勢こそがエキュメニカル運動において最も重要なことであると言えよう。

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