「富士山とシナイ山」小山晃佑著、森泉弘次訳
〈今も新鮮に響く鋭い批判〉
小山晃佑著、森泉弘次訳『富士山とシナイ山』(教文館)
松本 敏之
「ついに出た!」原著出版(1984年)から30年の時を経て、世界で恐らく最も有名な日本人神学者であった小山晃佑の主著にして、歴史的名著の日本語版の登場である。小山の死からもすでに5年が経過した。筆者は、ニューヨークのユニオン神学大学において、小山から直接薫陶を受けた日本人の一人として、訳者の森泉弘次氏に心から感謝の意を表したい。
全体は4部に分かれ、それぞれ、エレミヤ4・26、詩編121・2、出エジプト20・7、ホセア11・8が、モチーフの聖句として掲げられている。各部ほぼ5章ずつ、全部で20章の構成となっている。
この書物には、三つの視座がある。第一は、小山の少年時代の戦争体験である。東京大空襲と広島・長崎の原爆投下。それは果たして日本に対する神の裁きであったのかと問う。小山は天皇を頂点にした国家神道と軍事政権を批判的に検証しつつも、空爆をしたアメリカの罪も見逃さない。
第二は、アジアの宗教との対話による視座。『富士山とシナイ山』という書名がそれを象徴する。その視座は、タイ、シンガポールなどで神学教師を務めた経験によって培われたものであり、『水牛神学』(邦訳は2012年に教文館から刊行)に遡る。さらに、日本の古代から現代までの思想も縦横無尽に描かれる。それらは英語圏の読者を想定して書かれているが、日本人にとっても新たな発見に満ちている。小山は、仏教がどういう宗教であるかを紹介し、尊敬すべき宗教であることを力説する。仏教学者は小山の仏教理解をどう評価するか、日本語版の出版を機に、対話の輪が広がればと思う。
第三は、ニューヨーク市民としての視座である。執筆当時のレーガン政権の軍事大国化路線、またそれを容認し支持するキリスト教界と神学を批判する。「われわれも軍事力という、核爆弾という偶像の前で香を焚き、生け贄を献げ、頭を垂れて、礼拝している。この偶像が国家の政策を指図している」(266頁)。
さてこの書物は、小山の著書の中では最も体系的なものであるが、それでも一般の組織神学的な展開の仕方ではなく、小山の他の著書同様、聖書黙想的である。先述の聖句を始め、幾つかの聖句がモチーフとして繰り返され、それと対話するように思索が深められる。あたかも循環形式の音楽のようだ。
小山は、「神学は、人間の貪欲との闘いについての仏陀の教えと……イスラエルの神の激しく動かされる心とを、かかわらせる課題と取り組まなければならない」。それは「当惑させるような曖昧さの領域」「一種の周縁」であるが、「神学は、周縁にまで赴いたキリストに従って周縁にまで行かねばならない」と言う。そして「わたしは二者の神学的架け橋となる思想を示唆するつもりである」(382頁)と神学的決意表明がなされる。
そのような思索から、今日のわれわれにとって偶像とは何かを示しつつ、それを批判していく。そして小山流の「十字架の神学」から、キリスト者が生きるための四つの大事なポイントを示す(384頁以下)。その第一は、「破壊ではなく、創造を擁護する」ということである。「絨毯爆撃による荒廃地ではなく人間が暮らす世界を、死ではなく生を、敵意ではなくもてなしの心を、残忍ではなく憐れみを擁護する」。第二は、「われわれが世界とわれわれの運命について最終決定的な言葉を持っていない」ということ。そこで自己栄化から謙遜へと向かわされる。第三は、「多くの神々(偶像)が現存していることに気づかせてくれる」ということ。「皮膚の色で差別する神、知的能力の神、良い収入の神、大砲とミサイルの神など-われわれにとって大変魅力的な神々がいる」。第四は、「われわれの神は熱愛の神である」と述べた上で、「周縁へ赴くことによって中心性を確立したキリストこそキリスト教的社会認識およびキリスト教倫理の源泉である」と締めくくる。
中央志向で周縁に無配慮な神学、戦争を否定できない神学に対する小山の鋭い批判は、今も新鮮に響く。右傾化する現代日本にあって、今こそ、私たちは小山から学ばなければならない。
(「本のひろば」2015年3月号掲載)