「ブラジルのキリスト教」 -宣教師としての経験から-(2)1999年6月
(3)解放の神学と教会基礎共同体
解放の神学について、少し続けて申し上げます。
解放の神学というのは、カトリック教会の内側から起こってきた一つの宗教改革のような面を持っております。一九五〇年代の終わりごろ、ブラジル北東部を中心に、南米各地の貧しい地域で、教会基礎共同体というのが出てくるのです。それは信徒である貧しい人達が、自分達で批判的な目を持って聖書を読み始め、隠れた神様のみ旨を読み取ろうという運動でした。モーセがイスラエルの民を見捨てないで、その叫びを聞いて出エジプトをリードしていったように、自分達のことも神様はきっと助けてくださる。そういう思いで出発いたしました。
私のいた町のすぐ近くのレシフェというところで生まれましたパウロ・フレイレという教育学者がおりますけれども、その人が始めた識字教育法というのが非常に画期的なものでした。貧しい人達にただ頭から文字を教えるのでなくて、物事を自分で考え、批判的に社会を見ながら字を覚えるという、そういう教育法です。それが教会基礎共同体を中心に広まり非常に功を奏しました。聖書研究の小さなグループのようなものが核となって、それが特に軍事政権の時代には、反軍政の運動の拠点のようにして広がっていきました。
この教会基礎共同体というのと、解放の神学というのは、いわば車の両輪のようなものです。解放の神学はこの教会基礎共同体から生まれてまいりましたし、教会基礎共同体は解放の神学によって理論化されていきました。
さて、今日は一つ、「その名はイエス・キリスト」という賛美歌を用意しましたが、これはさっと読んでお分かりであると思いますが、マタイ福音書二十五章の「これらの中で最も小さい者にしたのは、すなわち私にしてくれたことなのである」というイエス様の言葉、そこにヒントを得た賛美歌ですけれども、そういう解放の神学が生まれてくる状況というものを良く表わしていると思ってこれを選んでみました。
こういう内容の賛美歌です。これは原曲はスペイン語ですのでブラジルではなく、南米の他のところで作られたものです(作者不詳)。ただしブラジルでも非常に良く歌われる曲です。今日はポルトガル語の版で聴いてもらいます。南米の曲というと、皆さんよくサンバのような賛美歌を想像なさると思いますけれども、非常にしっとりとしたきれいなメロディーの、そして私たちにぐっと訴えかけてくるような素敵な賛美歌です。どうぞ、聴いてください。( 「その名はイエス・キリスト」を聴く )
きれいな歌でしょう。
ポルトガル語というのは英語より楽だと思いませんか。私はブラジルへ行ってポルトガル語のコースにいましたときに、アメリカなど英語圏の宣教師たちが日本人より発音が下手なのです。私は英語でちょっと苦労した経験がありますから、「ざまあみろ」と思いました(笑い)。日本人には歌いやすいし、喋りやすい。文法は非常に難しいのですけれども、発音に関しては日本人には比較的楽な言葉です。
(4)ペンテコステ派教会
さて、そういうカトリックの宗教改革とも言える解放の神学、そして教会基礎共同体運動というものが、六〇年代、七〇年代の軍政が強まっていくときに、同時に大きくなってきました。その一つの反動のような形でペンテコステ運動、あるいはカリスマティック運動というのが起きてきたのではないかと私は思っています。
軍政の時代に、アメリカは軍事政府の方を一生懸命支援しました。またアメリカのファンダメンタルな教会は、あれは共産主義の教会だといってそれをやっつけるために、逆にこのブラジルの貧しいペンテコステ派教会を支援しました。そうしたことがどの程度影響したのかわかりませんが、とにかくこの間にペンテコステ派教会は成長しました。恐らく今は人口の十五%ぐらいはプロテスタントだと思いますが、その中の大半はいわゆるこのペンテコステ派教会です。ペンテコステ派教会という範疇をつくっていいかどうかわかりませんが、一番大きいのがアッセンブリー・オブ・ゴッド。二番目が神の国ユニバーサル教会。これはブラジル生まれのペンテコステ派教会ですが、二十年で非常に急成長して二番目の教会にまで大きくなりました。ペンテコステ派教会では概してカトリック教会に対して非常に対抗心が強く、伝道というのはカトリック教会から自分達信者を増やしていくような感じです。
カトリックは南米では非常に聖人崇拝というのが強いのです。私はカトリックの宣教師たちと一緒にポルトガル語を勉強したのですが、ヨーロッパからきたカトリックの宣教師でさえも、ちょっと驚くぐらいこの聖人崇拝が強いのです。そうした中でペンテコステ派教会がこれを攻撃するのですね。
そうした関係を象徴する事件が一九九五年一〇月一二日に起きました。(私のブラジル宣教報告書『大地のリズムと歌ーブラジル通信』に、その事件について詳しく書いてます。)さかのぼって一七一七年一〇月一二日サンパウロ州のいなかで川の中から黒い聖母像が出てきました。それを持って帰ったところ、どんどん不思議な奇跡が起きてきた。それでその聖母にはそういう力があるという評判が広がりまして、どんどん、どんどんそこに巡礼者が来るようになりました。今ではその日になると、毎年十万人ぐらいの人がこの町に集まるのです。今はその町は、「顕現」という名前を取って、アパレシーダと呼ばれています。
そういう状況に対して、プロテスタント教会では多かれ少なかれ批判的です。あれは聖書に関係ないことだと。ペンテコステ派教会はそれをもろにやるのですね。その第二の教派である神の国ユニバーサル教会というのは、急成長の背景には貧しい信徒からお金を巻き上げるみたいな訴訟があったりして、私たちからするとちょっとついていきかねるような教会ですが、その教会が一九九三年にテレビ局を買い取りました。「日本テレビ」とか「TBS」みたいな普通のテレビ局です。夜十二時まで普通のテレビ放送を続けながら、夜中の一時に「二十五時」という宗教番組を持っております。
その番組の中で十月十二日の未明に、ニュースキャスターとあるビショップが、この黒い聖母像を片手に、「これは自分が五百円ぐらいで買ってきたものであって、こんなものには何の力もないんだ、こんなものを信じてはいけない」といって、バンバン、バンバンと、十二回殴って、十回蹴り飛ばしました。それであくる日に、カトリックの信者が怒りまして、今度はカトリックの信者がユニバーサル教会をたたき壊したりしました。その時一番最高の監督がアメリカにいたのですが、電話で緊急の謝罪表明をして、表面上は収まりました。
この事件は偶然起きたのではなくて、何かカトリック教会とペンテコステ派教会の関係を象徴しているような事件であり、起こるべくして起こったように思います。ペンテコステ派教会の信仰というのは、解放の神学の基礎共同体と同じように、貧しい人達の中にどんどん浸透しているのですけれども、社会変革についてはほとんど何も言いません。そして倫理面を非常に大事にして、信仰の内面を強調します。そして酒は飲むな。煙草は吸うな。ダンスをするな。(日本の従来のクリスチャンのプロテスタントの倫理「禁酒禁煙」に、ダンスをするなということが付け加わっています。それだけブラジル人にとっては、ダンスをするということは魅力的誘惑的なことなんだなと逆に思ったりいたします。) 貧しい人達がそういう泥沼のような生活、酒浸り、あるいは煙草、そして家庭崩壊。というところから、実際に教会にきて立ち直っていくのを私は見ていますから、あんまり批判ばかりしたくありません。その中には良さもあるのです。ペンテコステ派教会が貧しい人の中で果たしている役割は大きいのです。私は禁酒禁煙を大事にして、そしてそれを誇りにしている人達を尊重しますし、そういう人達の信仰、魂の高められる純粋なものをいいなと思っています。伝統的なプロテスタントの教会も多かれ少なかれ、ペンテコステ派教会からの影響を受けています。どんどんそういうカリスマティックな雰囲気が入ってきています。田舎へ行けば行くほどそうです。そういう中から生まれてきたプロテスタントの賛美歌、信仰の内面を高めるような歌で、私が好きなものを次に皆さんに聞いていただきましょう。ブラジルのプロテスタントがどういう歌を歌っているかを知っていただきたいと思います。
「霊と真実をもって」と訳しました。
先程聞いていただいた賛美歌と全然違う中身を歌っていますけれども、矛盾はしません。信仰の内面について歌っています。 伴奏などいろいろなことを含めて、プロテスタントの礼拝の典型的な賛美歌です。( 「霊と真実をもって」を聴く )
いかがですか。これはこれできれいな歌で、私はは非常に好きな歌です。
大体プロテスタントの教会では、最初三十分ぐらいいろいろな歌を歌い続けるのですけれども、こういう歌を歌い始めると目をつぶって気持ちを高めていく。こういう歌と非常に激しい歌を、かわるがわる歌います。賛美しながら自分のすべてを神様の前にさし出していく。それが彼らにとって礼拝の一番大きな意味であるようです。
プロテスタントは自分達のことを「クレンチ」というのですが。クレンチとは「信じる者」、「信者」という意味です。そこには自分達はカトリックとは違う本当の信者なのだというふうなニュアンスが入っております。非常にカトリックに対する対抗心が強いのです。
そして社会変革などについては、カトリックの教会基礎共同体が担ってきたようなものについて、ほとんど関心がありませんから、その辺は残念だなと思っております。
この文章は、1999年4月20日開催の「YMCA午餐会」において行われた講演の速記録を、東京YMCAのご好意によって転載させていただいたものです。無断転載はご遠慮ください。東京キリスト教青年会発行の『別冊 東京青年』第355号(1999年6月)の内容と同じものです。