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『聖書 聖書協会共同訳』 松本 敏之

『聖書 聖書協会共同訳』 松本 敏之

2018年12月、待ちに待った新しい翻訳の『聖書 聖書協会共同訳』が出版されました。『口語訳聖書』が発行されたのが1955年、『新共同訳聖書』が1987年でしたので、日本聖書協会としては、ほぼ30年に一度のペースです。30年と言えば、ほぼ「一世代」。一世代で日本語も随分変わります。今回の翻訳でもいろいろと言葉が新しくなっています。たとえば、「薄荷、いのんど、茴香」は「ミント、ディル、クミン」になりました(マタイ23・23)。

全体として、日本語も読みやすくなりました。新共同訳聖書は「説明調」で覚えにくい感じがしましたが、今回の訳のほうが、日本語として、ぴしっと締まりがある感じで、暗唱もしやすそうです。新共同訳になった時に、なじみの言葉が変わってしまい、がっかりしていた人は、「口語訳がえり」とも言える現象に、うれしく思われるかもしれません。たとえば、詩編23編2節は「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い」から「主は私を緑の野に伏させ 憩いの汀に伴われる」になりました。コヘレト3章2節は「生まれる時、死ぬ時」から「生まれるに時があり、死ぬに時がある」になりました。幼子イエスを訪ねた人は「占星術の学者たち」から「東方の博士たち」になりました(マタイ2・1)。

今回の訳で、私が一番驚いたのは、ローマの信徒への手紙3章22節です。新共同訳では「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」でしたが、聖書協会共同訳では「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」となりました。つまり、キリスト教の中心的教義である「人はイエス・キリストへの信仰によって義とされる」というのが、「人はイエス・キリストの真実によって義とされる」となったのです。実は、ギリシア語の「ピスティス」には「信仰」という意味と「真実」という意味があり、「キリストへの」と「キリストの」という部分もどちらにも訳せるのです。宗教改革者ルターは、「私たちは行いによって義とされる(救われる)」のではなく、「信仰によって義とされる」のだと言いました。しかしその「信仰」も私たちの手のうちにあるのであれば、「行い」の域を出ていないかもしれません。「私が信仰を失ってしまえば、救われないのだろうか」と不安になります。しかし私たち人間の信仰をも超えたもの、すなわち「キリストの真実」こそが私たちを救うのです。よく大胆に変更したなと思います。

出エジプト記3章14節に示された神の名が「わたしはある」から、「私はいる」になりました。「ある」のほうが威厳がある感じがしますが、「いる」のほうが「インマヌエル」(神は私たちと共におられる)という名(マタイ1・23)に即していると言えるでしょう。

「重い皮膚病」は「規定の病」になりました(マタイ8・2等)。巻末に詳しい用語解説があります。ちなみに新改訳聖書では「ツァラアト」です。

読み比べてみると興味は尽きません。注で別の訳が記されているのもありがたいです。皆さんも、ぜひ手に取ってご覧ください。聖書は一般の書物よりも高いと感じる方もあるかもしれませんが、費やされた年月(10年以上!)、かかわった人数(148名!)を思えば、一般の書物の何倍もの(それ以上?)値打ちがあると思います。

「センター通信」2019年初夏号〈シリーズ この1冊〉(鹿児島キリスト教センター発行)

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