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2023年4月9日説教「共に歩まれる復活のキリスト」松本敏之牧師

ルカによる福音書24章13~27節

(1)エマオ

イースター、おめでとうございます。

私は、この4月から、鹿児島加治屋町教会において9年目をスタートしました。ただこの9年間の主日礼拝で、この「エマオ途上のキリスト」箇所を取りあげるのは初めてかと思います。この物語は夕方の出来事ですので、朝の礼拝では取り上げにくいということもあります。しかもイースター礼拝そのもので取りあげられることはほとんどありません。日本基督教団の聖書日課でも、来週の日曜日の聖書日課となっていますが、来週は来週で、十戒の話をしたいと思っていますので、本日、この「エマオ途上のキリスト」の箇所からお話させていただくこととしました。

「エマオ」という名前、記憶にある方もあるかもしれません。東日本大震災の折に被災者支援の拠点となった場所が宮城県仙台のエマオ・センターという名称でした。鹿児島からもボランティアで行かれれた方があると聞いています。昨年7月の信徒研修会に来てくださった荒尾教会の佐藤真史牧師は、そのエマオ・センターで主事を務めておられました。エマオとはそもそも何なのかと思っておられる方もあるかもしれません。これはとても印象深い物語であり、しかも重要な物語であります。

聖書協会共同訳でも新共同訳聖書でも、この箇所に「エマオで現われる」という題が付けられています。果たしてイエス・キリストはエマオで現われたのか、それともそのエマオ途上で、すなわちエマオへの道で現われたのか。これは両方とも当たっています。この物語はその二つの場面によって構成されています。第一幕、第二幕と言ってもよいかもしれません。後半の第二幕については、再来週の4月23日に、改めてお話したいと思っています。実は、エマオへの道で、その途上で、すでにキリストは二人の弟子たちに現われてくださっていました。この二人の目が遮られて、そうとはわからなかっただけでありました。

(2)意気消沈する二人の弟子

物語は、こう始まります。

「この日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」24:13

1スタディオンは、聖書巻末の度量衡換算表によれば、約185メートルということですから、60スタディオンは、約11キロメートルです。歩いて2~3時間の距離です。「この日」というのは、女たちがイエスの墓で天使たちと出会った日です。彼女たちは、その時の出来事について、弟子たちに話しました。その出来事について、この二人は聞いていました。しかし彼らは、その言葉を聞いても、何が起きたのかよく理解していませんでした。半信半疑であったのでしょうか。確かなことは、イエス・キリストの遺体が消えていたということです。それは人の目にも明らかなことです。彼らは一体何が起こったのだろうと思ったのです。何が何だかわからなかったかもしれません。

それ以前にもっと確かなことは、自分たちが望みをかけていた方、すなわちイエス・キリストが十字架にかけて殺されたということでした。

(3)見知らぬ旅人

彼らは、途中から旅の道連れになった人に、こう言います。

「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」24:21

過去形です。

「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」24:21

彼らは、この言葉をどういう意味で語ったのでしょうか。「あなたは、もう三日目になるのに、まだそのことを知らないのですか」ということでしょうか。彼らは、こう続けます。

「ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現われ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:22~24

彼らは聞いた通りのことを話したのでしょう。しかし彼らの行動は不思議です。望みをかけていた人が殺された。それで挫折して、都エルサレムを離れるというのであれば、まだわかります。「先生の死によってすべてが終わった」と。復活の話まで聞いたら、その段階で、もう一度心が躍ったとなるはずであったかもしれません。しかしお墓が空っぽであったという知らせは彼らの心を躍らせはしませんでした。より悪い事態になることを恐れて、都を離れようとしていたのかもしれません。

この見知らぬ旅人が話しかけてきた時、この二人は暗い顔をしていました(17節)。

「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止った。」24:14~17

暗い顔をしている。やはりがっかりしていたのです。天使の言葉を聞いても、受け入れられない。そして「エルサレムに滞在しながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じなかったのですか」と驚いた様子で反応し、そしてナザレのイエスのことを話し始めたというのです。

彼らが話し終えた後、イエス・キリストはこう言われました。

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」24:26

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされたということです(24:27)。

そこで一行は、エマオに到着しました。彼らはその見知らぬ人に一緒に泊まるように勧め、その後の食事の際の所作で、それがイエスだと分かったというのです。そこで遮られていた彼らの目が開けます。そこで彼らは互いにこう言うのです。

「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」24:32

それがざっとここで起こったことです。後半の28節以下については、先ほど申し上げたように、また改めてお話したいと思います。

(4)信仰は、ゆっくりとわかる

さてこの物語は、信仰がどういうものであるかをよく語っていると思います。
一つには、それはイエス・キリストご自身のほうから近づき、自分を開いて見せてくださることによって、ある時、突然わかる、というようなものです。イエス・キリストが共に歩んでくださる。ゆっくりと共に歩んでくださる。それでもまだわからない。知りたくもない人に、強制的に、強引にわからせるというようなものではない。そういうことをしても信仰を受け入れられるものではないでしょう。イエス・キリストがわかるためにはある一定の準備期間のようなものがあるのです。それは聖書の説き明かしを聞くことです。読むことでもいいです。

(5)信仰は、聖書と関係がある

二つ目としては、しかしその出会いは、聖書と深い関係があるということです。新約聖書だけではありません。ここに出てくる「聖書」というのは、実際には旧約聖書のことです。旧約聖書がすでにイエス・キリストのことを預言している。そして新約聖書はそれを証ししている。その備えがあって、初めてイエス・キリストがわかったということです。

キリストとの出会いは段階的に起こります。

まず、教会と出会い、聖書と出会い、その上でイエス・キリストとの出会いが起こる。あるとき、ふっと「あっそうか」ということになる。イエス・キリストと同時代の人はともかく、それ以降のクリスチャンは、みんなそういう出会いをしていると言えるでしょう。パウロもそうでした。パウロは、よく旧約聖書を学んでいました。そしてそこで証しされているのが、このイエス・キリストだと、ぴたっとつながったのです。

(6)心が静かに燃える

三つ目は、聖書の説き明かしを聞くことは、心が静かに燃えるような経験であるということです。私は、彼らの出会い方を興味深く思いました。彼らは、それがイエス・キリストがわかった時に(つまりエマオで一緒に食事をした時に)、心が燃えたというのではありません。もちろんその時も熱くなったでしょう。その後で、人々に伝えた時には、そのように語ったかもしれませんが、このときは違いました。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、自分たちの心は燃えていたではないか」と「思い起こした」のです。

ですから、私は、この二人の「心が燃える」経験というのは、恐らく熱狂的な燃えあがり方ではなかったと思うのです。静かに心が熱くなった。私は、聖霊体験とはそういうものではないかと思います。しばしば私たちは聖霊体験ということで、熱狂的なことを指すことがあります。そしてそれがない者は、信仰が足りないのかなと思いがちです。私もペンテコステ派の牧師と話していると、「私にはそういう経験はないな」と思うことがあります。しかし必ずしもそうでなくてよいのだと思います。

聖書の説き明かしを聞いて、心が静かに熱く燃える経験をすることがあるのではないでしょうか。そこですでに聖霊は働いているのです。こちらが気づかない形で、イエス・キリストは出会ってくださっているのです。そして、その次のさらなる出会いを準備してくださっている。それは地味な信仰生活かもしれません。しかし私たちは、そこですでに生かされている。そこですでにイエス・キリストが伴っていてくださる。共に歩んでくださっている。後でそれに気付くのです。思い起こすと、「確かにあのとき、私の心は燃えていた。」。

(7)もう一人の弟子とは

ここで二人の弟子たちとあります。クレオパともう一人の弟子。このもう一人とは誰なのか。十二弟子の中の一人かもしれません。ルカという説もあります。クレオパの妻という説もあります。しかしすべて想像です。それでよいのだと」思うのです。そのほうがよいかもしれません。特定する必要もないでしょう。

ルカは、福音書を旅の物語として書きました。ルカ福音書の解説書に『旅するイエス』というタイトルの本があります。そのルカ福音書の最後に、このエマオへの旅の物語が記されているのは印象的です。私は、あえてこのもう一人の名前が伏せられていることによって、これは私かもしれないと思うことができます。私がこの旅を共にし、そこにイエス・キリストが現われてくださるのです。

この時、二人の弟子は不安の真っただ中にいたのではないでしょうか。恐れをもち、都から退くようにして、エマオへと向かっている。その旅の中で、キリストが共におられたのです。私たちの信仰生活にも波があると思います。

昔のことを思い起こしながら、「あの頃、確かに自分は燃えていた。今は意気消沈して、あまりいいこともない。教会に来てもいいことも起こらない」と思われる方もあるかもしれません。しかしそこで、私たちが燃えていたことを思い起こさせてくださって、信仰を新たにしてくださる主イエスが共におられます。

(8)マーガレット・F・パワーズ「あしあと」

「あしあと」という有名な詩があります。この詩は、かつて、作者不詳とされていましたが、現在は、作者マーガレット・F・パワーズと明らかになりました。最後にそれをご紹介します。

「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか
 わたしにはわかりません。』

主は、ささやかれた。
『わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。』
マーガレット・F・パワーズ

時には、私たちを背負いながら、共に歩んでくださるイエス・キリストがおられることを忘れないようにしたいと思います。

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