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2023年4月23日説教「目が開け」松本敏之牧師

ルカによる福音書24章28~35節

(1)エマオ途上での物語

先ほど読んでいただいたルカによる福音書24章28節から35節は、先週、4月16日の日本基督教団の聖書日課の後半です。前半の27節までは、4月9日のイースター礼拝において、すでにお話しました。「エマオ途上のキリスト」の物語でありました。今日のところまで一続きの物語なのですが、1回では語り切れない内容を持っていますので、2回に分けて取り上げることにいたしました。本日の後半の物語はエマオに到着した後の話です。前半の物語は、こういうことでした。

イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られた後のことです。二人の弟子がエルサレムから10キロ余り離れたエマオへ向かっていました。一人の名はクレオパ、もう一人の名前は記されていません。二人は意気消沈してとぼとぼと歩いていましたが、そこに一人の旅人がやってきて話しかけます。彼は、最近のエルサレムでの出来事を知らないようでしたので、二人は説明してあげました。その旅の同行者が実は復活のイエス・キリストであったのですが、二人の目は遮られて、それが誰であるか悟ることはできませんでした。この二人は、「イエスは生きておられる」と天使が告げたという女性たちの話も聞いているのですが、それを信じたわけではありませんでした。ただお墓が空っぽであったという事実だけでは認めざるを得ませんでした。

そこで旅人はこう言います。

「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」ルカ24:25~26

そして、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)というのです。

エマオに到着します。二人はエマオに宿泊する予定でしたが、旅の人はさらに先へ行こうとしていました。二人は「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」(29節)と言って、無理に引きとめたので、その旅の人はそれに応じることになりました。

この二人にとっては、単にその旅の人が心配であったということではなく、その人と共に過ごした時間がとても貴重であったので、思わず、そういう言葉が出たのでしょう。叱責されながらも、「この人ともっと一緒にいたい」と思ったのです。

さて夕食の時間になりました。

旅の人は、「パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しに」(30節)なります。その瞬間、二人の目が開け、これまで自分たちと共にいて、そして今、目の前にいる人がイエス・キリストだとわかるのです。ただその次の瞬間、その姿が見えなくなりました。

(2)招きのサンバ(ブラジルの賛美歌)

さて、この物語について幾つか大事なことは、すでにイースター礼拝でお話しましたが、物語の後半も、私たちの信仰生活にとって、とても大事な幾つかのことを示唆しています。

第一に、このエマオでの食事は、最後の晩餐をほうふつとさせるものです。主の晩餐そのものです。復活の後の最初の聖餐式、つまり最後の晩餐を除けば、最初の聖餐式であったと言ってもよいでしょう。

何よりもまずそのイエス・キリストの所作がそれを示しています。「パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。」

それだけではありません。その食事は「歓迎の行為」で始まります。弟子の二人がイエス・キリストを招いています。そこで食事の備えをしたのはこの二人です。もっともその背後には、宿屋の人がいるかもしれませんが、この二人がこの旅人を招いたのです。ところが招いたはずのその人が食卓の主人となるのです。

私たちの聖餐式においても、そうでしょう。実際には礼拝委員の人がその備えをします。時には牧師かその備えをします。しかしそれだけで聖餐式は聖餐式になりません。そこに、イエス・キリストを迎えるのです。私たち日本基督教団の式文では、そのことは明確に言葉には表れませんが、多くの世界の聖餐式の式文では、「主よ、この食卓に来てください」という言葉が出てきます。

ブラジルの賛美歌の中に、「招きのサンバ」(Samba da Invocação) という曲がありましたが、それは、まさに聖餐式の最初に歌う歌です。こういう言葉です。

「神よ、扉は開いています。 私たちの中においでください。 主よ、パンの準備はできています。 私たちの中においでください。」

ポルトガル語ではこういう言葉です。

Aberta esta a porta, o Deus Vem entre nos, estar! Servido esta o pao, Senhor Vem entre nos, estar!

そしてこういう言葉が続きます。

「私たちの住まいが私たちの歩幅よりも 大きいものでありますように 私たちの抱擁(ハグ)が私たちの肩幅よりも 大きいものでありますように」

つまり「住まいやスキンシップを求めている人たちを私たちが迎えることができますように」ということでしょう。日本語ではわかりませんが、「住まい」と「歩幅」、「抱擁」と「肩幅」が韻を踏んでいます。さらにこう続きます。

「のどが渇いている人々 庇護を必要としている人々 (その心が)正義や愛情や優しさに飢え渇いている人々が 私たちの中に力を見いだし 旅の時の宿と感じてくれますように」

自分たちがそのようにもてなすことができますように、と言いつつ、「イエス様、この食卓に来てください」と祈って聖餐式を始めるのです。すてきな賛美歌で、日本語で歌えたらいいなと思うのですが、ちょっと無理かなとあきらめています。

最初はこんな感じです。少し歌ってみます。

SAMBA DE INVOCACAO

Aberta esta a porta, o Deus Vem entre nos, estar! Servido esta o pao, Senhor Vem entre nos, estar! Que seja o nosso teto Maior que os nossos passos; Que seja o nosso abraco Maior que os nossos ombros. Que coracoes sedentos De agua e de sustento Justica, amor , carinho, Encontrem em nos a forca, O abrigo no caminho. Aberta esta.

(3)教派による聖餐理解の違い

いずれにしろ、聖餐式を聖餐式たらしめるのは、まさにこのイエス・キリストが共におられるということです。聖餐式にイエス・キリストがおられなければ、それは空しい儀式になってしまうでしょう。もっとも聖餐式の中で、イエス・キリストがどのように共にいてくださるのかは、教派によって理解が異なります。

カトリックでは、パンとぶどう酒そのものが、神父が「これはイエス・キリストの体です」「これはイエス・キリストの血です」と唱えた瞬間に、そのパン(ホスチア)とぶどう酒は、イエス・キリストの体と血と同じものとなる(聖体変化)と理解します。

宗教改革者たち(ルターやカルヴァン)は、パンとぶどう酒がイエス・キリストの体そのもの、血そのものになるというのはある種の偶像だと批判しました。でもその先がプロテスタントでも教派によって理解が異なっています。たとえば、ルターは(すなわちルーテル教会)は、パンはパン、ぶどう酒はぶどう酒であって、それがイエス・キリストの体や血に変化するわけではない。けれども、そのパンの中にイエス・キリストはおられる。ぶどう酒の中にキリストはおられる。つまりパンを食する時に、イエス・キリストも一緒に私たちのからだの中に一緒に入ってくる、と言いました。

カルヴァンは、そういうルターについて、まだ「カトリック的な偶像の残滓がある」と言って批判をしました。そして、そのパンの中に(物質の中に)、イエス・キリストがおられるというのではなくて、聖餐式という出来事の中に、イエス・キリストは霊的に臨在すると言いました(Spiritual Presence)と言ったのです。改革派の教会、長老主義の教会はそういう理解をしています。私たちの教会の伝統であるメソジストは、あまり独自の神学をもっているわけではなく、聖餐式に関しては、このカルヴァンの理解を踏襲していると言ってもよいと思います。聖餐式という出来事の中に、イエス・キリストは霊的に現臨しておられる。

ですからカトリックでは、一旦聖別されたパン(ホスチア)は、イエス・キリストの体のままですが、プロテスタント教会の理解では、聖餐式が終われば、それは普通のパンです。もちろんルーテル教会でも、その点では同じです。

さてそのような違いはさておき、(特にプロテスタント教会の)聖餐式においては、イエス・キリストを聖餐式にお迎えする。ところが気が付いてみると、イエス・キリスト自身が聖餐式の主人になっているというのは、このエマオでの食事に通じるものがあると思います。

(4)聖餐はみ言葉の説き明かしに続く

第二のことは、み言葉の説き明かしと聖餐式の関係です。

弟子たちは、この時、知らずしてではありますが、キリストの言葉(すなわち聖書の解き明かし)を聞いて、心が熱くなりました。それに聖餐式が続きます。

これは私たちの礼拝においても同じです。今はコロナの関係で、礼拝を一旦終えてから聖餐式を行っていますが、そのうちにまた元の形に戻そうと思っています。しかしいずれにしろ、説教があり、それに聖餐式が続きます。

カトリック教会では聖餐(聖体拝領)が特に重んじられますが、プロテスタント教会ではむしろ説教が重んじられます。しかしその順序は同じです。その順序でなされるということに意味があります。そこで生けるキリストを、「言葉」と「聖礼典」によって経験するのです。

(5)イエス・キリストは見えなくなった

第三のことは、この時、イエス・キリストだとわかった瞬間に、彼はいなくなってしまいました。いや霊的な形で共にいるのに違いないけれども見えなくなった。これも私たちと同じです。

イエス・キリストの直弟子たちは、キリストを目で見える形で知っていました。しかし第二世代以降の人たち、そして私たちはそうではありません。使徒パウロもそうでした。しかし宣言の言葉によって共におられることを信じるのです。

このエマオでの食卓は、第二世代以降のクリスチャンと第一世代のクリスチャンを結ぶ記事であると言ってもよいでしょう。

(6)思い出すことで理解する

次に心に留めたいのは、弟子たちの心の動きです。彼らは、思いだすことによって理解しました。

「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」ルカ24:32

イエス・キリストが聖書を説き明かされたとき、弟子たちがどういう反応をしたのかは聖書に書いてありません(27節)。しかし、今や食卓でイエス・キリストを経験した彼らは、イエス・キリストと路上で話したその時間がかけがえのないものであったことを、後で思い起こすのです。信仰というのは記憶と結びついています。

私たちはしばしば過去を振り返ることによって、そこで何が起こっていたのかを理解するものです。

明確な信仰を持つようになった時に、でも、それはずっと前から始まっていたことを思い起こすのです。それがなし得た後で、すでにあの時に始まっていたのだということを悟るのです。自分がキリスト教主義の学校へ通っていたこと、子どもの時に教会学校へっていたこと、かつてある牧師と出会ったことを、はっきりとした信仰を得た後で、あの時、すでにキリストは共にいてくださったと悟るのです。「お母さんがこう話してくれた」

しかしすでに聞いていたことも事実です。私たちは聞いていなかったことを思い起こすことはできないからです。

(7)重要な経験には三つの時がある

ある註解書には、「ある出来事について知る機会は3回ある」と書いてありました。そして旅行を思い浮かべてくださいというのです。

「1回目は、その出来事の準備のとき、2回目は、まさにその出来事が起こっているとき、3回目はそのことを思い出すとき、というのです。

準備の時、約束の時、たとえば、旅行の準備をしている時、もうすでに何かが始まっています。心もときめいています。旅行の本や、インターネットで調べたり、予約をしたりする。しかしまだ本当にそれが起きるのかどうかわからない。まだその出来事が本当に起こるとか、そのことがそれほどに重要であるとは信じることができないために、理解は妨げられている。

そし二つ目の経験は、実際に旅行している時。しかしそしてその出来事が実際に起こっているときには、出来事があまりに速い速度で起こり、紛糾、混乱しているので、理解が妨げられてしまう。

そして三回目。その出来事を思い起こすときには、準備の時の理解不足や実際に体験している時のあわただしさも退いて、それを振り返ることができる。アルバムを整理したり、写真を1枚の紙にまとめてみたり、おみやげを確認したりする。そのときこそが重要なのだというのです。重要な旅であるとか、結婚であるとか、友人たちの集まりであるとか、みんなそういう三つの時があるというのです。

イエス・キリストとの出会いもそれに似たところがあります。その真っただ中の時は気づかないのだけれども、後になって振り返ると、確かにイエス様は一緒にいてくださった。あの時、私の心は燃えていた、というのです。

(8)エルサレムで経験を分かち合った二人

ただそれで想い出で終わってしまうのではなく、未来に向かって歩み出すのです。

この二人も、どうしたのかと言えば、何を思ったか、何か理由があってエマオまで来ていたので、突然、踵を返してエルサレムへ帰って行くのです。そうすると、11人の弟子たちが集まっていました。そしてイエス様は本当に復活して、シモン・ペトロに出会ったくださった、という話をしていました。そこにこの二人は、自分たちの話をします。実は、私たちもエマオでイエス様にお会いしました。みんなの経験が一つになっていきました。これこそまさに教会の姿ではないかと思いました。そこで経験を分かち合い、もう一度心が熱くされて、前に向かって歩んで行く。エマオの出来事は、私たちにそういうことを教えてくれるように思います。

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