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2021年8月29日説教「暗 闇」松本敏之牧師

出エジプト記10章21~11章3節  ヨハネ福音書12章35~36節

説教を始める前に、皆さんにご報告があります。鹿児島加治屋町教会では、鹿児島での新型コロナウイルス感染の急拡大の中、集まる形式の主日礼拝、家族礼拝を、8月15日から29日まで休止し、動画配信のみとしていますが、この形を9月12日まで継続することといたしました。19日には再開したいと願って準備を進めていますが、どうぞご理解とご協力をお願いします。9月19日以降の措置につきましては、9月12日の教会役員会で決定する予定です。この困難な時期、みんなで祈りあい、励まし合い、支え合って、乗り越えていきたいと思います。

(1)ファラオに対する侮辱

さて、今日は月に一度くらいで読み進めています出エジプト記をテキストに語ります。「暗闇」という題で、お話します。

いよいよ一連の災いの物語も終わりに近づいてきました。本日は、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」と11章の「初子の災い」と題された部分の前半からメッセージを聞いてまいりましょう。

ばったの災いの後、主はモーセに言われました。

「天に向かって手を伸ばしなさい。すると闇がエジプトの地に臨み、誰もが手探りで闇を感じるようになる。」(10:21)

「闇が迫ってくる」という一般的表現がありますが、「手探りで感じるほどの闇」というのは、何かとてもリアルな表現であると思います。神様の言われた通り、モーセが天に向かって手を伸ばすと、暗闇がエジプト全土に三日間臨みました。そして、三日間、人は互いに見ることも、自分の場所から立ち上がることもできませんでした。昼に日の光がないだけではなく、夜も月の光、星の光すらなかったということでしょう。一方で、イスラエルの人々が住む所には光がありました。

この暗闇の災いというのは、ファラオに対するこの上ない侮辱でありました。ファラオは、太陽神アモン・レーの化身と考えられていたからです。エジプトの二大神というのがナイル川と太陽であったそうですが、一連の災いは、ナイル川を血に染めるという、ナイル川の威光に対する打撃で始まりました。今やもう一つの神として崇められている太陽に対してなされたというのは、そのようにファラオの威信をあざ笑うものでありました。

(2)決裂するファラオとモーセ

そうは言っても、ファラオはずっと闇のままではたまりませんので、再び、モーセを呼び寄せました。

「行って、主に仕えよ。ただし、羊と牛は残すように。家族は連れて行ってよい。」(10:24)

前回、ばったの災いのところでは、「男だけで行って主に仕えよ」(10:11)と言いましたので、ここでファラオは、前より一つ妥協したと言えます。ただし羊や牛、つまり家畜は駄目だというのです。

ところがモーセのほうは妥協しません。このようにファラオに切り返しました。

「あなた自身もまた、会食のいけにえと焼き尽くすいけにえを私たちの手に渡してください。そうすれば、それを私たちの神、主に献げます。私たちは家畜も連れていきます。ひづめ一つ残すことはできません。」(11:25~26)

そしてその理由を述べるのですが、これがまたおもしろいのです。

「私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも、そこに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきか、私たちには分からないのです。」(10:26)

どれをささげるべきかは、現地で祈りつつ決める。つまり土壇場で決めるというのです。これはイスラエルの民のやり方であったのでしょうが、いかにも全部の家畜を連れて行くための方便という感じがいたします。それに加えて、ファラオからもいけにえの動物をいただくというのです。

これを聞いたファラオは、逆上して、再び彼らを去らせまいといたします。ファラオは言いました。

「出て行け。二度と私の顔を見ないよう気をつけよ。私の顔を見る時は、死ぬときだ。」(10:28)

モーセも負けてはいません。

「分かりました。私も二度とあなたの顔を見ようとは思いません。」(10:29)

ただし、実際にはこの後もう一度ファラオはモーセを呼び出すことになります(12:31参照)。

(3)ファラオの心をかたくなにする

このところに、「主がファラオの心をかたくなにしたので」(10:27)と記されています。ファラオの心がかたくなになったのは、主がそうされたのだ、という含みがあります。この言葉は、実は、これまでにも何度も出てきました(4:21、9:12、10:20他)。こうした聖書の言葉を読むときに、私たちは少なからず、とまどいを覚えます。神様がファラオの意志を完全にコントロールして、しかもかたくなな方向へ神様がし向けているのだとすれば、ファラオは全く救われる余地がないではないか、という気がするからです。ファラオには自由意志がないようにさえ思えます。

このことは、神学的にもなかなか難しいデリケートな問題です。昔から自由意志論であるとか、神の予定説という議論において取り上げられてきました。ただし私はあまり観念的に考え過ぎないほうがよいだろうと思います。

ある注解者は、「『私はファラオの心をかたくなにする』という表現は、『ファラオは言うことを聞かないであろう』と密接に類似している」と述べていました。(チャイルズ。『出エジプト記 上』291頁)。とても似ている、ほぼ同じ表現だということです。

ファラオにも悔い改める余地はあったはずです。しかし権力を持ち、財力を持った人間が、神様の前にすべてを投げ出して悔い改めるというのが、いかに難しいかということを思わせられます。神様は、このイスラエルの民、エジプトの奴隷たちのエジプト脱出という大事業を成功させるために、あえてそのような人間の性格を用いられた、ということもうできようかと思います。

もともと対等な人間の勝負ではありません。奴隷たちのほうは武器も何も持っていません。圧倒的に支配者のほうが強いのです。しかも支配者は彼らを解放する気など毛頭ありません。そこへ神がかかわられて、奴隷たちの解放を実現される。そのために、それが本当のことになるために、神はさまざまな方法を用いて、道を整えられたのでした。ファラオのかたくなさも、彼らに最後に最もよい形でエジプトを去らせるために一役買っていると言えるでしょう。

(4)エジプト人の好意を得させる

11章の最初の部分では、そうした神様の計画が別の面から語られます。ここでは、ファラオの心とは反対に、エジプトの人々の心を柔らかにすることによって、出エジプトの道備えがなされました。神様はモーセに、「男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい」(11:2)と言うのですが、こういう風に続きます。

「主はエジプト人が民に好意をもつようにした。モーセその人もまた、エジプトの地で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。」(11:3)

神様は、このエジプト脱出大事業を成功させるために、一方でファラオの心をかたくなにさせながら、もう一方では、ファラオの家臣たちや他の一般のエジプト人の心を開かせられた。それどころかモーセはだんだんとエジプト人からも尊敬されるようになっていったというのです。

奴隷たちは、自分のものをほとんど何も持っていません。これから荒れ野を旅するのにいろいろなものが必要になります。それを得ることができるように、主が配慮された。エジプト人たちが彼らに好意をもつようにしてくださったというのです。

もっともここでは、それが友好的に、自発的になされるということですが、必ずしもそうならないこともあったでしょう。実は、この話はモーセが最初に召命を受けた3章のところで、すでに出てきているのです。

「私は、エジプト人がこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女は、その隣人や家の同居人に対して、銀の飾りや金の飾り、外套を求めなさい。それらをあなたの息子、娘に身に着けさせ、エジプトから奪い取りなさい。」(3:21~22)

「奪い取りなさい」という激しい言葉が使われています。これもちょっと理解に苦しむ言葉です。盗みを奨励しているように聞こえるからです。これにも古来、さまざまな議論があります。有力なものは、これは彼らがそれまでエジプトで奴隷としてただで働かされてきたことに対する正当な要求だ、いわば代償だという理解です。これはなかなか説得力のある解釈ではないかと思います。

(5)「ザ・ホワイトハウス」

私は、以前の教会でやはり出エジプト記による説教を行っていました。その時の説教で、当時のテレビ番組の話をしていました。2003年3月の説教ですが、ちょうどその頃、NHKで金曜日の夜に放映されていた「ザ・ホワイトハウス」というテレビ番組です。アメリカ合衆国の大統領の側近たちの物語です。アメリカ合衆国の大統領を描くということで、最初は何となくうさん臭いものを感じていたのですが、なかなか質の高い、よい番組でした。第18話「昼食前に」(原題はSix Meetings Before Lunch)という話の中に、興味深い会話がありました。ジョシュという大統領補佐官と、ホワイトハウスが指名したブレッケンリッジという司法次官補との会話です。ブレッケンリッジはアフリカ系アメリカ人(黒人)です。彼は奴隷の子孫として、奴隷制への賠償を支持する態度を公に表明するのです。しかし、アメリカ政府としてはホワイトハウスの指名した人間に、奴隷制への賠償を支持されると困るので、大統領はあわてて、ジョシュにその対応を委ねたのでした。そのジョシュとブレッケンリッジとの会話でありました。ブレッケンリッジは「アフリカ系アメリカ人は、奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられ、ただで働かされた。その労働賃金を、今日のお金で試算すると、最も少なく見積もっても、1兆6000億ドル(190兆円)になる。それは何らかの形で償われなければならない」と言うのです。そしてその具体的方法として、「国家が、奴隷制の犠牲となった人々の子孫、つまり黒人たちの教育に、その1兆6000億ドルを使う」ことを真顔で提案するのです。ジョシュは、その巨額の提案にびっくりするのですが、私はそれを見ながら、アメリカの奴隷制は、それだけの額にのぼる程の労働力を無償で強いたのだと、改めて思わせられました。これは非常に非人間的なことです。

私は、この賠償金の話は、今回のテキストの出エジプトの話と似ていると思いました。出エジプト記の話のほうでは、神様の方から奴隷たちに向かって、「あなたたちはそれだけのものを、堂々とこの国から持って出る権利があるのだ」と言おうとされたのでしょう。

(6)暗闇に輝く光

さて暗闇の災いには、どういう意味があるのかということをもう少し考えてみたいと思います。光とは、創世記によれば、神様が天地の次に造られた創造物でありました。光が創られる以前、世界は混沌として、闇が世界を覆っていました。ですから光が取り去られるということは、この世界がそうした混沌の状態に戻ってしまうことを象徴しているように思います。

しかしイスラエルの人々のところには、つまり神が共にいることを約束されたところには、光が絶えることがなかった。そこはいつも明るく照らし続けられたというのです。私は、この話を読みながら、ヨハネ福音書の冒頭を思い起こしました。有名な「初めに言があった」で始まって、しばらく読みますと、こういう言葉が出てきます。

「言の内になったものは命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1:4~5)

そしてこう続きます。

「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」(1:9)

この「言」「命」「光」とは、他ならないイエス・キリストを指しています。

私たちは今、コロナ禍にあって、ある意味で暗闇のような時を過ごしています。最初に申し上げたように、集まっての主日礼拝の休止も続いています。いつこの暗闇のトンネルから抜け出せるのか。菅首相は、8月26日の会見で、緊急事態宣言に新たに8道県を追加することを報告しながら、「明かりははっきり見え始めている」と述べていました。その希望的観測が当たっているかどうかは別として、逆に言えば、今は出口が見えないような暗闇の中にあるということを示しています。9月1日の二学期開始を目前に、より注意して日々を過ごさなければならなくなってきています。

またそれ以外の世界の状況においても、暗いニュースが毎日報道されています。ミャンマーの問題に加えて、アフガニスタン情勢も一気に緊迫したものとなってきました。出口が見えない。暗闇が立ちこめる中、何をなすべきか 、ということが問われている大事な時であろうかと思います。それこそ暗闇が迫ってきて、「誰もが手探りで闇を感じる」ようになってきているとも言えるでしょう。

そうした中で、この世界にまことの光であるお方が来られたということを、信仰を持って受けとめること、知ることは、この時代を歩み抜くのに、最も大事なことではないかと思います。そのお方がおられるところには光がある。そしてその光は闇に勝つのです。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」というヨハネ福音書の言葉の通りです。

(7)光のうちを歩め

イエス・キリストが十字架におかかりになった時、昼の12時であったにもかかわらず、全地が真っ暗になった、太陽は光を失った、と聖書は語ります(ルカ23:44)。このことは、イエス・キリストが光であることを、逆に示していると思います。キリストなき世界は、暗闇なのです。反対にイエス・キリストが誕生された最初のクリスマスの夜には、「主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らした」と記されています(ルカ2:9)。夜であるにもかかわらず、昼のように輝いたのです。イエス・キリストが共におられるということは、光がすぐそばにあるということです。

ヨハネ福音書は、こう語ります。

「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35~36)

まさにイエス・キリストという光をいただいて、闇に捕らえられることのないように、光のもとを歩んでいきましょう。

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